内牧城 所在地 熊本県阿蘇市
JR内牧駅北3.8km阿蘇体育館付近
区分 平城
最終訪問日 2014/10/18
内牧城概要図 阿蘇地方唯一の平城。
 内牧城は天文年間(1532-55)に築城されたという。当時、一帯を支配していたのは、阿蘇神社の大宮司から武家化した阿蘇氏で、天正年間(1573-93.1)には阿蘇氏の家臣辺春盛道が城主として見える。ただ、阿蘇氏自身は、本拠を阿蘇外輪山の南にある矢部郷の浜ノ館、もしくはその近くの岩尾城に置いていた為、内牧城は阿蘇神社に近い立地であったが、軍事的要衝という扱いではなかったのだろう。
 時代は下って天正13年(1585)になると、北進を続ける島津氏が相良氏を降していよいよ阿蘇へと侵攻してくるのだが、阿蘇氏では柱石だった甲斐宗運は既に亡く、また、当主も早世などで相次ぐ代替わりがあり、組織的な抵抗もできないまま阿蘇氏の領内を固めていた阿蘇二十四城と呼ばれる支城群が次々に陥落していった。そして、当主惟光も目丸に落ち、大名としての阿蘇氏は滅んでしまう。このような情勢の中、内牧城でも盛道が城に籠城しているのだが、翌同14年(1586)に敗れて自刃し、落城したと伝わっている。この後、翌年に秀吉による九州征伐が行われ、肥後から更に猛烈な勢いで北上していった島津軍も敗れ去ったのだが、目丸に落ちていた阿蘇惟光は戦後に大宮司としての身分を与えられたに過ぎず、結局大名としては復帰できなかった。
 九州征伐後、肥後はほぼ一国が佐々成政に与えられたが、肥後国人一揆を防げなかった成政は改易の上、自刃を命じられ、翌天正16年(1588)には肥後は南北に分割された上で秀吉子飼いの加藤清正と小西行長に与えられている。こうして阿蘇地方は清正が領すこととなり、内牧城は家老の加藤可重が城代を務めた。
二ノ丸跡から黒川旧河道とその向こうの本丸跡 その後は、慶長9年(1604)に可重が病没した為、その娘婿重泰、そして可重の子正方へと伝えられ、慶長17年(1612)に正方が幕府から麦島城代を命じられると、正方の子正直が岩尾城代から内牧城代に転じている。そして、元和元年(1615)の一国一城令により、同年かその翌年に廃城となった。
 以降の城跡は、加藤氏に代わって肥後を支配した細川家の参勤交代の際の宿泊所である御茶屋が本丸跡に、一帯の行政府施設となる手永会所が二ノ丸跡に建てられており、廃城後も実質の機能としてはそれほど変わらなかったようだ。そして維新後も、そのまま二ノ丸跡が役場敷地として使われ続け、平成20年に阿蘇市役所内牧支所が移転するまでは、城跡が行政の中心として使われ続けた。
 城の構造は、西から本丸、二ノ丸、三ノ丸が東へ直線上に並ぶ梯郭式の城で、その間に黒川を蛇行させて堀の代わりとしており、本丸と二ノ丸が黒川の南に、三ノ丸は黒川の北側に配置される形となっている。往時の様子は江戸時代の大火などで失われてしまったようで、詳しい事は分からないが、二ノ丸の石垣が民家の基礎などとして残っていたようで、全部、もしくはある程度の重要な部分は石垣造りだったようだ。
 城跡は、現在は本丸が体育館、二ノ丸が駐車場と遊具公園になっており、三ノ丸は住宅地などになっている。城の堀として活用された黒川は、江戸時代に現在の流路へと付け替えられたが、旧河道がそのまま湧水池として残されており、周辺は親水公園として船が浮かべられ、とても落ち着いた空間となっていた。その旧河道の北側には、石で囲われた井戸の枠組みだけがぽつんとあったが、これも城の井戸だったのだろうか。その他、案内板によれば、児童公園前に石垣の一部が残っているという。
堀代わりだった本丸裏手の黒川旧河道 訪れた日は、本丸跡の体育館とその周辺で何かイベントが行われ、多くの人達で賑わっていた上、体育館として綺麗に整備されていて遺構も無さそうというのもあって、本丸の散策は諦めた。堀跡の旧河道沿いを歩き、二ノ丸の所に来てみると、こちらはこちらで親子連れが多く遊ぶ遊具公園があり、人も多かったのだが、イベント会場とは違ってこちらは長閑な休日の光景という感じである。遺構の類は少なく、旧河道にその面影を僅かに求めることができる程度の城ではあるが、雰囲気良く穏やかに散策できる城だった。