鷹ノ原城 所在地 熊本県南関町
九州道南関I.C.南西1km
区分 平山城
最終訪問日 2014/10/18
城址碑と本丸北西部 鷹野原城や鷹原城とも書き、現地城址碑には鷹の原城とあった。
 天正15年(1587)の九州征伐後、肥後には佐々成政が封じられたが、検地を強行したことから肥後の土豪達から反発され、一揆を起こされてしまう。一般に肥後国人一揆と呼ばれるものだが、成政はこれを自力で鎮圧できず、失政から改易となり、代わって北肥後に加藤清正が入部した。
 南関の地は、その名の通り昔から国境の関が設けられた場所で、戦国時代以前にも歴史上にしばしば登場する場所である。肥後に入った清正も、同様にこの地を北の守りとして重視し、従兄弟の婿で五家老のひとりである加藤正次を城の北東にあった大津山城に城代として置いた。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、大津山城は中世的な山城であった為、正次は城下の発展を考えて清正に新城築城を願い出る。こうして、清正自らが縄張して築かれたのが鷹ノ原城であったが、城の存在期間は短く、元和元年(1615)の一国一城令の頃に廃城となった。また、廃城後も、寛永14年(1637)から翌年にかけての島原の乱で古城の原城が再利用されたことから、西日本、特に九州の古城は再度破却を受けており、鷹ノ原城もその際に徹底的に破却されたとみられている。
本丸と三ノ丸の間に散乱する石垣の石材 城の構造は、比高数10mの台地上に本丸から三ノ丸までを構築した近世平山城で、本丸の北に二ノ丸、同じく西に三ノ丸を置き、それぞれが深い堀で区画されていた。この深く掘った堀の土を盛って本丸を均していたようで、本丸の大きさは近世城らしくかなりの規模となっている。発掘調査により、主郭部分は総石垣であったことが判っているが、徹底的な破壊によって残存する石垣は本丸東側のごく一部だけにしか見えず、発掘調査以前は幻の城といわれたこともあったようだ。
 現在は、発掘調査で掘られた部分がそのまま残されており、各所に石垣の基底部が見えている。この基底部から推測するに、本丸東西には桝形の虎口があったようだ。また、本丸と三ノ丸の間の堀は相当な大きさであるが、この底部にも巨石が散乱しており、周囲から崩された石垣の石材が堀に並べられ、そのまま埋められたという破城の様子を窺い知ることができる。清正の死などがあって工事が遅れ、城は完成せぬまま廃城になったとも伝わっているが、これら残存する石垣基底部などの状態を見ると、少なくとも軍事拠点としての機能はもう備わっていたと考えて間違いなさそうだ。
遊歩道沿いに見える石塁 城は、南関町役場の北にあり、江戸時代の参勤交代の折に使われた御茶屋という休憩施設の後背にある。南関の小さな市街地に、御茶屋や鷹ノ尾城の案内が所々で表示されている為、城跡は見付け易いだろう。登城口は東西にあるようで、自分は御茶屋の東側から繋がる遊歩道から城に入ったが、道の途中にも小規模な石塁が見られた。主郭部分は果樹園や畑地になっていたらしく、それがそのまま残っているが、発掘が行われた場所は掘られて低くなっており、石垣の並びから縄張を想像するのがなかなか楽しい。また、この広い本丸の南西部には、西南戦争の戦没者を葬った城ノ原官軍墓地もあった。
 一番の見所は、本丸と三ノ丸の間の堀の部分だろうか。発掘調査の際に埋められていた堀を掘ったのだと思われるが、前述したように往時の堀は相当深い事が解り、また、底に石材が散乱しているなど、当時の徹底した破城の様子が生々しく残っている。熊本藩領の南の拠点であった佐敷城も破壊の様子がよく解る城で、破城の様子を明確に残す城は少ない為に両城とも貴重なのだが、比較すると、鷹ノ原城は佐敷城よりももっと徹底して破壊されていたのではないだろうか。これは、島原の対岸であり、地理的に比較的近いという影響があったのかもしれない。