元居城 所在地 熊本県菊池市
菊池市役所北東4.4km
区分 山城
最終訪問日 2014/10/18
元居城本丸と城址碑 菊池十八外城のひとつで、モトオリと読み、茂藤里城とも書く。
 菊池十八外城というのは、菊池氏の支城網を解り易くした象徴とも言うべきもので、実際には菊池郡内外の菊池氏関連の城は30余りあるという。元居城は、菊池本城に対して東の境の城となる菊池渓谷の市成城、立門の掛幕城に次ぐ防衛線として、数kmの範囲にある五社尾城や黄金塚城と連携していたと思われる。
 城を築城したのは、菊池氏7代隆定の子伊倉定直という。隆定の父隆直は、平家の九州支配に反抗した武将で、治承4年(1180)に阿蘇惟安や木原盛実と共に鎮西反乱を起こし、大宰府を焼き討ちするなどしたが、養和2年(1182)4月頃に降伏し、源平の争乱では主に平氏方として活動した。隆直の死には斬首から病死まで諸説あるのだが、いずれも元暦2年(1185)かその数年後とされ、次の隆定の治世が鎌倉幕府草創期だったのは間違いない。隆定は神社を多く建立したとされ、戦乱の後始末として領内を宣撫したことが窺えるが、子定直の伊倉入部もその内政充実の一環だったのだろう。しかし、元居城の事跡として伝わるのは、この事のみである。
次段の鬱蒼とした竹林 ちなみに、伊倉は茂藤里のすぐ東の地名なのだが、定直は、城がある上に現在まで残るほどの確かな地名である茂藤里を名乗ってはいない。これは、定直が伊倉に本拠を置いていたという証左で、伊倉に常在の館を持った上で、少し離れたこの茂藤里に詰城としての元居城を築いたというなのだろう。ただ、順序を逆に考えて、当初は伊倉城と呼ばれていたが、茂藤里の地名が後から出来たことで城の呼び方も変わった、ということもあるかもしれない。いずれにしろ、想像の域を出ない話ではある。
 城は、意外と奥行きのある最上部の本丸から、北西側に次段があり、その次段の南西側にも削平地が造られ、更に次段の北西側には帯郭のような地形が数段連なっていた。次段の西には道沿いに窪みが数mあり、現地案内板では菊池郡誌に見える空堀の跡と推定している。現在の城へのアクセスは城の西側からだが、城まで山を下って行く形になっていることから、菊池本城のある西側の防衛は城の構想外だったのだろう。往時の城には、城が相対的に高所となる菊池川沿いの陸路や水路の交通を押さえる役目があったと思われる。往時の具体的な街道筋は調べてもよく分からなかったが、常道から考えて菊池川沿いにも何らかの道はあったと思われ、菊池川沿いの監視機能を考えると城は主に東か南方向へ構築されていたと推定されるが、本丸の東側は鬱蒼とした竹林で、散策もままならなかった。
空堀跡と見られる細長い窪み 菊池神社へ向かう途中、国道387号線沿いに偶然に城への案内を発見して寄ってみた城だが、城への行き方は非常に判りにくい。国道387号線脇にある案内から、途中の2ヶ所の分岐の案内までは判り易いのだが、2ヶ所目の分岐から先が判らず、しばらく周囲をぐるぐると回る羽目になってしまった。2ヶ所目の分岐の案内に沿って左折し、すぐの十字路をそのまま真っ直ぐ進むと、急勾配の私道がそのまま民家に向かっており、自分も1度引き返したように間違いかと思ってしまうが、民家へ入る直前、左手の果樹園と右手の民家の間に未舗装の細い道があり、ここから城跡へと行くことができる。ちなみに車などは止める場所が無いので、2ヶ所目の分岐の案内の周辺に止めないと、どうにもならない。この細い道を下って行くと、一度視界が開け、そのまま道なりに竹林に入っていくと、そこが城跡である。