隈部館 所在地 熊本県山鹿市
山鹿市役所北東10.7km
区分 平山城・居館
最終訪問日 2014/10/18
広大な居館跡 山鹿の上永野のなだらかな中腹に築かれた城。永野城や、猿返城の里城という意味で永野猿返城と呼ばれることもある。
 隈部氏は、清和源氏の主流である多田源氏の祖源満仲の次男で、大和源氏を扶養した頼親の流れという。頼親から5代目にあたる宇野頼治は、保元元年(1156)の保元の乱で、崇徳上皇方として争乱に先駆けて捕らえられ、乱後は赦免されて大和へ帰されたが、この頼治が後に流罪となったか、もしくはその一族が肥後に下向して土着した末裔が隈部氏と伝わる。頼治については、治承4年(1180)の以仁王の挙兵の際、その子らが大和で活動したことが見えることから、大和の基盤は失っておらず、一族の誰かが下向したと見るのが妥当なところだろうか。
 下向した隈部氏の祖は、米山城を築いてこの上永野の地を本拠とし、菊池氏に仕えたという。そして、元寇直前の文永元年(1264)の持直の時、その忠義から菊池武房より菊池氏の本拠隈府を意味する隈部を名乗ることを許されている。
 以降、菊池三家老のひとつとして勢力を伸ばし、主家の衰退もあって、その家督を左右できるほどの重臣となっていく。その最初が宇土為光の叛乱と言えるだろうか。為光は、菊池家当主だった持朝の子で、甥重朝が当主の頃から度々叛乱を起こした武将だが、重朝の子武運(能運)の時の文亀元年(1501)の叛乱では、菊池氏の本拠菊池城を奪取しており、この時に為光を菊池城で出迎えたのが隈部忠直であったともいわれる。ただし、忠直は明応3年(1494)に没したとも伝わるほか、為光と隈部氏のどちらが叛乱の主導的立場だったのかなど、真相のほどはよく分からない。確実に言える事は、この頃には主家の家督に影響力を及ぼすことの出来る存在へ成長していたということだろう。とは言え、能運陣営にも忠直の曾孫と見られる隈部運治という名が見えており、隈部氏も内訌が続く家中の荒波に晒され、一枚岩ではいられなかったようだ。
 菊池家はその後、能運の早世により、阿蘇氏の当主であった惟長を迎えて武経と名乗らせた為、嫡流の血脈が途絶え、武経の出奔後は菊池一門の武包を挟んで大友氏より義武を迎えるのだが、この一連の当主擁立にも隈部氏は重要な役目を果たしたという。隈部館が築かれたのは、これら能運の没落と復帰、そしてその早世と他家からの養子相続が行われた一連の出来事の頃とされ、武治の時代だったとされている。武治は、著名な親永の曽祖父で、忠直の曾孫にあたり、僅か100年程度で7代も親子相続があったというのはかなり多く、系図類をそのまま信用するのはやや躊躇われるが、いずれにしても、主家菊池氏の混乱と衰退、そしてそれに反比例する隈部氏の勢力拡大が、巨大な居館造営のきっかけとなったのは間違いないだろう。
隈部館全体図 その後の菊池家では、送り込まれた義武が、重臣の影響力を嫌って本拠を隈本へ移し、やがて兄大友義鑑からの独立を図るのだが、菊池郡一帯の菊池家臣らは既に大半が大友氏の影響下にあり、義武が敗れて落去した後も大した変化は無かった。菊池氏の正嫡が途絶えた段階で当主は神輿に過ぎず、菊池領の実質的な領主は菊池家臣であり、その領地の保障は阿蘇氏及び大友氏が担っていたのである。そして、このような流れの中、その勢力拡張を反映し、親家の頃か、その子親永の頃にこの隈部館も拡張改修されたようだ。
 この後、隈部氏は永禄2年(1559)に同じ菊池三家老のひとつであった赤星親家と対立し、合勢川で激突してこれを破り、更に大友氏と結ぶ親家に対抗して龍造寺隆信と結び、龍造寺軍の肥後侵攻に与した。これにより、親永は赤星氏の本拠となっていた菊池城を与えられ、天正8年(1580)か翌年に本拠を移している。同12年(1584)には、親永は島津氏の侵攻を受け、1年間も攻囲に耐えて和睦に持ち込んだとも、1ヶ月程度で菊池三家老のひとつであった城氏を通じて臣従したともいわれているが、家臣富田氏続が守っていたというこの隈部館の状況は、詳しく伝わっていない。
 同15年(1587)の秀吉による九州征伐の際には、親永は秀吉に臣従して本領を安堵をされたが、それは本領部分のみであり、実質的に領地は半減されることとなる。更に、新たに入部した佐々成政の強引な検地があった為、これに反抗する形で親永は挙兵し、連携する形で国人衆も蜂起した。所謂肥後国人一揆であるが、親永がこの時に使った拠点は菊池城や城村城であり、この館は軍事拠点としては使われなかったようだ。この叛乱は同年末には鎮圧され、隈部館も叛乱鎮圧と共に廃された。
 隈部館は、背後の標高685mの猿返城とそれに連なる米山城を詰とし、猿返城から440m下った地点の緩やかな傾斜地に築かれている。縄張としては単純で、南北60m、東西85mの単郭方形の郭に、南の大手として石垣の桝形を築き、そこから同じく石垣で囲われた方形の郭である馬屋を張り出させた形をしており、居館らしい形状と言えるだろうか。ただ、周囲の緩やかな傾斜地には無数の小郭があり、万一の場合には郭と化す一族や家臣の屋敷があったと思われる。館内を詳しく見ると、3棟分の礎石と庭園跡が確認されており、それに伴う排水機構も検出され、主郭北東部のやや高い場所には、櫓のような建物があった可能性が高い。また、往時は館に6本の堀があったとされているが、現存するのは3本で、館の北側に明確なものとやや不明瞭なもの、南側に大規模なものが残っている。この中では、南側の堀がなかなかの迫力で、見応えがあった。この他、上永野地区に当時の名残と思われる地名も残っており、緩やかな傾斜も持つ斜面に営々と武家屋敷を中心とする城下町が構成されていたようだ。
居館と馬屋の間にある石垣桝形 菊池市街から県道18号線を北上すると、道沿いに幾度も隈部館の表示があり、迷う心配はないだろう。館という割にかなり標高がある為、ぐいぐいと上って行くことになるが、道は広く、駐車場も大きいので、どんな車でも大丈夫だ。館は国指定の史跡というこもあって非常に整備されており、景色も、遮るもの無く一望できて非常に爽快だった。館でこれだけの大きさと石垣などの構造物を持っているというのは、当時の隈部氏の勢いを示したものと言え、その力が相当なものであったというのを、館の跡からひしひしと感じることができる。