菊池城 所在地 熊本県菊池市
菊池市役所北東1km国道387号線沿い
区分 平山城
最終訪問日 2014/10/18
菊池城本丸跡に立つ菊池神社 肥後の有力大名菊池氏の本拠で、菊池本城や守山城、隈府城ともいう。菊池十八外城の本城としては守山城と呼ばれることが多く、また、ゲーム等から隈府城と呼ばれる事も多い。
 菊池氏は、大宰少監藤原則隆が祖といい、則隆は藤原北家流中関白家の藤原隆家の孫とされてきた。この隆家は、その叔父藤原道長も一目置いていた人物で、枕草子にも登場する堂々たる中央貴族である。だが、摂関職を務めた父道隆の急死によってその弟道長が栄達した為、権力争いを避けて遠国への赴任を自ら望み、大宰権師への任官で九州と縁を持った。そして、その縁で孫則隆が肥後に下向したというのが系図類の筋書きである。しかし、その後の研究で、則隆の父で隆家の部下として大宰少弐を務めた政則が、肥後国住人とあることから、隆家の裔というのは仮冒という説が有力になっているという。しかしながら、本当の出自については多様な説があり、有力な説は出ていない。
 いずれにしろ、政則か則隆の代の延久2年(1070)前後に菊池に勢力を築いたのは間違いないようで、その後は鳥羽院に領地を寄進してその庇護を受けた。源平の争乱期には、治承4年(1180)に当主隆直が阿蘇惟安や木原盛実らと鎮西反乱を起こすが、養和2年(1182)4月頃に降伏し、以降は平家方としての行動を余儀無くされている。この為、隆直には病死説のほか、壇ノ浦の敗戦後に斬首されたとも菊之池城で敗れて自刃したともいう。以後、菊池氏は大友氏ら関東からの下り衆の下風に立たされ、その曾孫能隆が承久3年(1221)の承久の乱で後鳥羽上皇に与した事で更に逼塞し、能隆の孫武房が元寇時の赤坂の戦いに活躍したが、ほとんど報いられる事は無かった。
 その後、武房の孫武時が、後醍醐天皇の綸旨受けて元弘3年(1333)3月に鎮西探題を襲い、これが倒幕戦の先駆けとなる。ただ、これは純粋な倒幕行動ではなく、探題での裁判敗訴が遠因ともいう。理由はともかく、この性急な叛乱は少弐氏や大友氏に受け入れられず、武時は敗死してしまうのだが、この2ヶ月後には幕府が滅び、武時の子で本国肥後へと落ちていた武重は肥後守護という褒賞を得ることとなった。
 以降、武重やその弟武敏は九州の有力な南朝方として活動したが、武重の跡を継いだ弟武士は才気に乏しく、武重の弟で武士の庶兄にあたる武光が台頭して家督を継いだ。武光は、興国6年(1345)に菊之池城(深川城)を奪い返すと、懐良親王を迎えて南朝勢力の拡大に奔走し、観応の擾乱による足利直冬の九州下向という第三勢力の登場で九州は三分され、互いに離合した。直冬の落去後は、武光は正平10年(1355)までに少弐頼尚や大友氏泰を懐良親王に服属させ、九州をほぼ南朝一色に染め上げる事に成功している。この両氏の離反後は、正平14年(1359)の筑後川の合戦で、氏泰の弟氏時と、頼尚を破り、氏時没後にその子氏継を服属させて大友氏を分裂に追い込んだ。しかし、総兵力を注ぎ込んだ東征では、下関で敗れた為に威勢は本州に届かず、九州探題今川貞世(了俊)の赴任後は文中元年(1372)に太宰府を失い、次第に押されるようになっていく。このような情勢の中、翌年に武光は病没し、嫡子武政が高良山の陣中で跡を継いだが、劣勢を覆すことは出来ずにその翌年に早世してしまい、ここから菊池氏は衰退していくのである。ちなみに、菊池城が築かれたのはこの頃で、正平年間(1347.1-70)に武政が築いたとも武光が築いたともいう。
菊池神社にある菊池十八外城の碑 武政の没後、幼主武朝が跡を継いだが、北朝方の攻勢は止まず、高良山からも退き、一時的な勝利は得たものの、弘和元年(1381)にはこの菊池城も奪われてしまった。こうして武朝は宇土氏を頼って落ち、復帰は10年以上経った明徳3年(1392)の南北合一後となる。だが、その後も反幕的な当主が続き、また、短命による幼主相続を重ねるなど、守護職には復帰したものの守護大名化は進まなかった。
 やがて、15世紀後半頃の重朝の代から、叔父宇土為光の叛乱など内訌が目立ち始め、子武運(能運)の時には重臣隈部氏とも対立し、菊池城から本拠を移さざるを得なくなる。その後、武運は八代を相良氏から奪うが、文亀元年(1501)には宇土為光に菊池城を奪われて島原に落ち、2年後に為光を破って菊池城奪還には成功したものの、直後に早世した。家督は武運のはとこである政隆が継いだが、これまた若年で、菊池氏は周囲の大名の介入を受けるようになり、その意を受けた重臣らは結託して永正2年(1505)に阿蘇氏の当主惟長を擁立し、同4年(1507)に菊池城へ迎え、菊池の正統は絶えることとなる。しかし、新たに武経と名乗っ惟長は驕慢で、重臣らは次第に離反し、身の危険を感じた武経は同8年(1511)に出奔した。こうして空位となった家督は、武光の弟武澄の系である武包が一時的に継ぎ、やがて永正17年(1520)に大友義鑑が弟義武を送り込むのだが、義武は兄から離反して反大友の行動を取り、菊池家臣らとの不和も抱え、菊池家は瓦解していくのである。
 この頃の菊池城は、義武が入部後すぐに隈本城へ本拠を移した為、本城ではなくなり、天文3年(1534)に義武が大友軍に敗れて相良領へ落ちた後、天文19年(1550)の義武の復帰戦で大友側に与した赤星親家が城主となった。赤星氏は、菊池三家老のひとつに数えられた菊池庶流で、本家瓦解後は同じく三家老である隈部氏と争い、互いに大友氏と龍造寺氏の後援を得て戦ったが、菊池城は天正6年(1578)と同8年(1580)の2度、龍造寺軍に攻められたらしく、その都度、龍造寺氏に降伏したようだ。
 この2度目の攻略後、同年か翌年に隈部親永が城の管理を任され、その本拠としたが、同12年(1584)の龍造寺隆信討死後、親永は島津氏に転じ、秀吉の九州征伐後はこれに恭順した。しかし、肥後に入部した佐々成政の検地には強硬に抵抗し、菊池城で同15年(1587)7月に挙兵、籠城している。だが、翌月に佐々軍の攻撃を受け、親永は城村城に退いて城は放棄され、国人一揆終息後に破却されたという。
 城は、阿蘇外輪山より続くなだらかな山塊の突端部にあり、菊池川と迫間川に挟まれた比高数10mの場所にある。城跡は現在、菊池神社と菊池公園になっており、菊池神社が本丸跡で金比羅神社辺りにかけて東南方向に二ノ丸、三ノ丸と連なっていたとされるが、隈部氏による改修もあった為か、本丸以外の縄張に関してはどうも不明確なようだ。縄張的には、平野部に対しては接する面が広く、迎え討つ城としては最適だが、その反面、重層的な厚みが少なく、寡兵で閉じ籠る戦いには不向きとも言え、比高が高い背後の防御面にも不安が残る城だろうか。ちなみに、菊池城の一角とも言える雲上宮神社の場所は、懐良親王が居を構えた場所という。
菊池公園の峰筋の郭跡と見られる削平地 城跡の菊池神社は、明治3年創建で、建武中興十五社のひとつとして菊池武時と子の武重、武光を祀っているのだが、その整備が仇となり、明確な本丸遺構はほとんど無い。神社裏手に空堀があるらしいのだが、それは見逃してしまったのが残念だ。神社と菊池公園との間には、国道が切通しのように通るが、他で見られるように郭間の堀切跡なのだろう。菊池公園に入ると、峰筋を削平した段郭らしき地形や、切岸のような崖などもあり、遺構か整備地形かの判別は置くとして、城跡を流用した典型的な史跡公園という感じでなかなか良かった。