城村城 所在地 熊本県山鹿市
山鹿市役所北西3.5km
区分 平山城
最終訪問日 2014/10/18
城村城址碑 菊池三家老であった城氏の居城。後に肥後国人一揆で隈部氏が籠もった城としても知られる。
 城氏は菊池氏庶流で、承久3年(1221)の承久の乱に後鳥羽上皇方として参陣した菊池能隆の子隆経を祖とし、城村に居を構えて城を姓とした。城村城の築城時期は不明だが、この頃に築かれた居館が原型となっている可能性もあるだろう。以後、城氏については鎌倉時代の事跡は不詳であるが、南北朝時代には九州南朝方の中心として活動する宗家を支え、有力一門として太平記にもその名は登場している。この頃の当主武顕は智勇に優れ、数々の奇策を用いた戦いも伝わっており、常に菊池軍の先鋒として活躍したという。
 菊池氏が後に守護職を得ると、城氏は守護代を務め、隈部氏や赤星氏と並び菊池三家老と称されるようになり、文明13年(1481)8月に菊池重朝が主催した菊池万句という連歌会では、当主為冬が席主のひとりになるなど、菊池家中で重きを成した。だが、同年には重朝の叔父宇土為光の叛乱が起こるなど、この頃より菊池家は混迷の時代に差し掛かり、重朝の子武運(能運)の頃には、武運と隈部氏も対立するようになる。そして、文亀元年(1501)には、為光と隈部氏のどちらの主導かは不明だが、菊池城が叛乱で奪われ、2年後に能運は菊池城を奪回するものの、戦傷が元で翌年に早世してしまう。これにより、能運のはとこである政隆が当主となったが、有力家臣らは心服せず、永正2年(1505)には阿蘇氏や大友氏と連携して阿蘇家当主阿蘇惟長を擁立した為、菊池正嫡は断絶した。しかし、武経と名乗った惟長も家中を掌握できず、早くも同8年(1511)には阿蘇へと帰ってしまっている。これを見るに、城氏を始めとする有力家臣らは、既に実質的な独立領主と言える権力と実力を持っていたのだろう。
 この後、菊池宗家は、庶流の武包を挟んで大友氏の主導により同15年(1518)に大友義鑑の弟義武が継ぐが、重臣の影響力を嫌って隈府から隈本へと本拠を移し、更には兄からの独立をも図った。この時、城氏を始めとする菊池家重臣は大友氏に与し、天文5年(1536)に義武は追放されたのだが、大友家が二階崩れの変で混乱した同21年(1550)には義武が再起を図った為、当主親冬は再び大友氏に味方している。戦後、この功によって親冬は隈本城主に転じた為、城氏は城村城からは離れた。
城村城本丸 その後の城村城は、しばらく動向不明の期間を経て隈部氏の支配する城となり、隈部親永が後に嫡子親泰にこの城を任せたように、隈部時代も拠点として重視されたようだ。ただ、一説に有働兼元が城主であったともいう。
 親永の時代の肥後北部は、大友氏から龍造寺氏、そして両者を耳川と沖田畷で破った島津氏の手へと支配が移って行くのだが、大友氏から龍造寺氏に転じていた親永は、天正12年(1584)の島津勢の北上に対し、1年間籠城して和睦に持ち込んだとも、島津配下となった城氏を通じて親泰が早々に臣従したともいわれる。この直後、親永は島津軍の一員として天正15年(1587)の秀吉による九州征伐を迎えたが、秀吉に恭順することで領地を本領に半減されるも、何とか生き残った。
 九州征伐後、肥後を領したのは佐々成政であったが、成政が強引な検地を実施したことから、これに反抗した親永・親泰父子は同年7月に挙兵し、これが他の国人衆へも広がった為、肥後全体での国人一揆へと発展する。親永は、本拠菊池城は早々に落とされたものの、親泰の籠もるこの城に移り、領民らと共に1万5千以上の数で籠城して佐々軍を退け、その間に隈本城を他の国人衆が攻撃した為、一旦は佐々軍主力の撃退に成功した。しかし、成政は手勢での鎮圧を断念して秀吉に援軍を請い、九州四国の大名が動員される中、城村城には立花宗茂が差し向けられ、状況は悪化する。そして、同年12月に黒田官兵衛孝高の勧告を受け、親永は城を開城し、翌年に柳川城の黒門で討たれた。これにより、城も廃城となっている。
 城村城は、国道3号線から岩野川を挟んで西側、川沿いの丘陵地にある城で、城内はほぼ平坦であり、典型的な川沿いの丘城、崖城と言えるだろう。主郭部は、本丸から南東方向に直線上に三ノ丸まで並び、本丸北東側には下ノ段という東西38間、南北73間というかなり広い郭があったようだ。城村城の合戦布陣図を見てみると、この他に三ノ丸の西南側に太郎丸と五郎丸という郭があり、主郭部北西側にも出丸があったことが判る。また、妙見出丸口、船尾口、保柳口、大手原口、岩地蔵口と、標高のあまり無い地勢だけに城の虎口が多く、大手には桝形が築かれていた。全体で見ると、主郭部は集落横の農地だが、今の集落全体が城郭を成していたと言える。
手前の二ノ丸と空堀らしき道路を挟んで三ノ丸 城の集落から岩野川へ下りる細い農道沿いに城跡の入口があり、やや離れて車1台分のスペースと説明板があった。この農道自体が二ノ丸と三ノ丸の間の堀切を利用したもののようだ。現在は、三ノ丸と二ノ丸が農地で、本丸の広場の奥に城址碑と籠城戦の説明板があり、各郭の区切りや堀切跡などが判り易く、城の形状は掴み易い。ただ、本丸から下ノ段へ行く道は、完全に藪化して分け入ることすらできなかった。集落を含め、1万5千以上の人数が籠もったという城域は大きく、徒歩で集落や城菅原神社などを辿りながら往時を想像するのが楽しい城である。