浦戸城 所在地 高知県高知市
高知県庁南東7.9km桂浜公園後背
区分 平山城
最終訪問日 2004/9/10
駐車場脇にある城址碑 著名な観光地である桂浜の後背にあった城。
 鎌倉時代末期に在地豪族によって城が築かれていたらしいが、戦国時代に本山梅慶こと茂宗によって本格的に築城された。築城年代は不明だが、父養明が永正5年(1508)に山田氏や大平氏、吉良氏と連合して長宗我部兼序を討ち、本山氏が土佐中央部に勢力を拡げて以降のはずで、具体的には朝倉城が築城された大永年間(1521-28)頃か、その少し後だろうか。一説では天文年間(1532-55)ともいう。
 その後、本山氏は茂宗の代に西の吉良氏をも討って勢力を拡げ、土佐の豪族の中で最も大きな勢力となった。一方、兼序が討たれた長宗我部氏は、その遺児が難を逃れて土佐国司一条房家の保護を受けていたが、この遺児は後に元服して国親と名乗り、本山氏と和睦して家を再興する。そして、国親は着実に周辺を固めて勢力を拡げ、茂宗が没して娘婿でもある茂辰が跡を継ぐと本山氏の領地を侵し始め、永禄3年(1560)には遂に両軍は浦戸からほど近い長浜表で激突した。この戦いでは、本山軍は兵力に勝りながら敗走に追い込まれてしまうが、戦の前に長浜城を奪っていた国親は戦果を拡大すべく浦戸城に攻め寄せるものの、急病を発して撤退してる。その後、国親は撤退した後も快癒せず、嫡子に本山氏討伐を託して死去した。この嫡子こそ、土佐の出来人と呼ばれ、四国統一を成し遂げた長宗我部元親である。
天守台から続いていた石垣は移転されている 国親の急病で長宗我部軍が退却した後、周囲から孤立した浦戸城は本山氏から放棄されたようで、元親の弟親貞が城主となった。しかし、親貞以降の城主ははっきりとしない。
 その後、秀吉の四国征伐に敗れて土佐一国に戻された後の天正16年(1588)、元親は岡豊城から現在の高知城がある大高坂山に本拠を移したが、水害を治めきれず、天正19年(1591)にはこの浦戸城を本拠とした。しかし、元親の跡を継いだ四男盛親は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で西軍に味方して改易となってしまう。こうして、四国の雄長宗我部家は滅んだ。
 この後、土佐藩の初代藩主となる山内一豊が土佐一国を賜り、弟の康豊を城受け取りに派遣するが、この時、浦戸一揆と呼ばれる、長宗我部旧臣による立て籠もり事件がこの城を舞台に発生している。この一揆は、長宗我部家の上級家臣の協力もあって鎮圧され、翌年に一豊は無事浦戸城へと入った。だが、城下町の経営を考えた一豊は、後背地の狭さを理由に高知城の築城を開始し、本丸と二ノ丸の工事がほぼ完了した慶長8年(1603)に高知城へと移った為、浦戸城は廃城となっている。
浦戸城跡の現況図 現在、浦戸城の本丸にあたる詰ノ段は、国民宿舎桂浜荘や坂本竜馬記念館の敷地となり、全く面影を残していない。遺構としては、その駐車場の隅にやや盛り上がった天守台が残され、一部を残す天守石垣と城址碑があり、天守跡には小さな祠が建っていた。また、天守台の下には、天守台から伸びていた石垣が移築されているほか、車道沿いの比較的目立つ位置にも案内板があり、石碑も建っている。とは言え、近世まで存在していた城の跡としては、寂しい限りというのが正直な所だろう。