坂本竜馬像
所在地  高知県高知市
浦戸湾口桂浜北側すぐ
最終訪問日  2004/9/10
桂浜を見下ろす坂本竜馬の像 桂浜の端の小高い丘に立つ坂本竜馬の像。県青年団が昭和3年に建立した。
 元になったのはかの有名な写真で、片手を袖に隠し、もう一方を懐に差して、髪の毛は鬢の辺りが縮れ上がっている。
 竜馬は、天保6年(1835)11月15日、高知城下に住む郷士坂本八平の5人兄弟の末っ子の次男として生まれた。諱は直陰で、のちに直柔としている。また、坂本家は明智光秀の一族の末裔だという伝説を持っており、家紋が同じ桔梗で、しかも光秀の領した近江国坂本から名字を取ったともいわれているが、実際のところは明智家とは関係ないらしい。戦国期に山城から移った先祖が長岡郡才谷村におり、後に高知城下に出て財を成し、郷士の株を買ったというのは、事実としてははっきりしているようだ。
 竜馬は、幼少の頃は泣き虫で、手習いの師匠からも手に負えないといわれるほどの所謂落ちこぼれであったが、すぐ上の姉乙女に鍛えられ、日根野道場に通う頃には立派な少年となり、やがて日根野道場で目録を得、江戸への剣術修行では千葉定吉の小千葉と呼ばれる桶町の道場に通った。また、江戸へ旅立ってから帰国していた期間を挟み、この5年の間に佐久間象山や河田小龍といった開明派にも師事し、世界の見聞を広めている。
 再び帰国した後、武市半平太の土佐勤王党に参加するも、意見が合わずに脱藩して江戸に向かい、勝海舟の弟子となった。この件では、一般には海舟暗殺に向かって逆に説得されたといわれているが、国外事情をある程度知っている上に暗殺という手法を嫌っていた竜馬自身が暗殺を考えていたかというと、個人的には疑問である。その後、勝海舟の下で神戸の海軍操練所設立に奔走し、設立後は操練所か勝の私塾である海軍塾の塾頭として活動したが、京都での政変で情勢が変わると薩摩の西郷隆盛に保護され、その援助で後の海援隊となる亀山社中を慶応元年(1865)に設立した。亀山社中は日本初の株式会社といわれ、私設海軍兼海運貿易会社として薩摩と長州を経済的に結び付け、翌年の薩長同盟に重要な役割を果たし、第2次長州征伐にも参戦している。後に土佐藩の外郭機関として海援隊に改組され、公的地位を得ているが、実質的には間違いなく竜馬の私設海軍であり、雄藩しか海軍を持っていなかった幕末では、地位のない竜馬の発言力の源泉であったのだろう。
 薩長同盟成立後、竜馬個人としては寺田屋事件やお龍との結婚があり、大きな動きとしては第2次長州征伐を挟んで慶応3年(1867)に海援隊が発足するが、海難裁判の先駆けとなるいろは丸事件などもあり、その滑り出しは困難であったようだ。その後、大政奉還などを含んだ船中八策と呼ばれる試案を考え、海援隊の活動も軌道に乗り始めた11月15日、風邪を引いて京都近江屋に滞在していたところを襲撃に遭い、暗殺された。享年33。
 これには幕府陰謀説や、武力倒幕を目指して内戦回避を目指す竜馬と意見の相違があった薩摩藩陰謀説などがあり、実行犯も新撰組を筆頭に諸説あるが、維新後の今井信郎の述懐では佐々木只三郎の見廻組の犯行と証言されており、現在ではこれが通説となっている。
 維新後、一介の脱藩浪人だった坂本竜馬は、一時世間から忘れられていたが、ふとしたことから人気が出た。皇后陛下が夢で坂本竜馬と思しき人物に海軍の守護を約束されたというものであったが、政治的には、薩長閥に押されていた土佐藩出身の顕官達が、坂本竜馬を担ぎ出すことによって土佐藩閥の人気を得ようとしたといわれている。また、その人気も海軍守護という意味での軍神的な意味で、今の人気とは性質の違うものであったらしい。
 背景はどうあれ、藩に囚われず、他の志士にはない独特かつ近代的な視点を持ち、幕末の土佐藩志士の首領格であった竜馬には根強い人気があり、生涯は僅か33年という短さではあったが、この故郷の桂浜で今なお、その像は海を見つめて立っている。竜馬自身も、江戸へ剣術修行に旅立つ前の少年期には、ほど近いこの桂浜で遊んだことだろう。ここに来ると、竜馬は今の日本をどう見るだろうかと思うが、そのスケールの大きな発想なら、日本に留まっていない、というよりは収まりきれないのは確実ではないだろうか。ちなみに、この銅像は室戸岬の中岡慎太郎像と作者、鋳造工場が同じという兄弟像で、生前の両者の信頼関係が像の生い立ちに表れたようでもある。