岡豊城 所在地 高知県南国市
南国市役所北西2.8km歴史民俗資料館後背
区分 山城
最終訪問日 2004/9/9
岡豊城縄張図 四国を統一した長宗我部家累代の居城。
 長宗我部氏は、蘇我氏の部民である宗我部の末裔という説もあるが、一般的には、秦の始皇帝や、ローマである大秦、秦韓国がルーツという伝承を持つ秦氏の末裔といわれる。
 長宗我部氏の直接の祖は、聖徳太子の時代に活躍した秦河勝で、河勝はその功によって信濃に所領を得、その子孫が信濃に広がって豪族となった。長宗我部氏の祖もこのような豪族のひとつで、初代能俊が信濃から土佐へ入部し、地名から宗我部を名乗ったという。ただ、この入部に関しては、平安時代末期に土佐国司として入部したという説から、承久3年(1221)の承久の乱の功によって地頭として入部したという説まで、時代に幅がある。その後、香美郡の宗我部氏と混同を避ける為、郡の一字を取って長宗我部と名乗り、香美郡の香宗我部氏と互いに区別した。
 岡豊城の築城は、この初代能俊によるという説もあるが、発掘調査の結果、13世紀から14世紀の築城と考えられている。承久の乱後の入部であれば、能俊による築城も考えられなくは無いが、能俊は麓に居館を構え、子孫が山に築城したと考えるのが妥当なところだろうか。
 土佐入部後の長宗我部氏は、鎌倉時代に江村氏や久礼田氏などの庶族を分出して惣領制を確立し、南北朝時代には、当主信能が尊氏に味方して、その一門の細川氏の下で南朝方と戦っている。このように、長宗我部家は土佐守護である京兆細川家の有力被官として成長し、応仁元年(1467)からの応仁の乱でも上洛して戦った。
 応仁の乱後の土佐は、京兆細川家の影響力が衰える中、京から乱を逃れて下向してきた一条家が一定の重しとなっていたが、土佐七雄と呼ばれる有力国人を中心に小競り合いはあったようだ。そして、永正4年(1507)に京兆細川家当主であった政元が暗殺されると、土佐での細川氏の影響力が一層低下し、細川家の下で威勢を誇った当主兼序は、同5年(1508)に本山氏ら有力国人の連合軍によって岡豊城を攻撃されてしまう。この戦いは、兼序に横柄な振る舞いがあって反感を買った為とされるが、実態は、細川家の家督争いの影響を受けた土佐の国人同士による代理戦争であったのだろう。兼序自身は、文武両道の勇将であったようだが、多勢無勢、城を討って出た局地戦には勝利するも、結局は籠城して糧道を絶たれてしまい、自刃して岡豊城も落城した。この敗北により、長宗我部氏は一旦没落し、兼序の遺児は一条房家に養育されることとなる。そして成長した遺児は国親と名乗り、本山氏と和睦して永正13年(1516)か同15年(1518)に岡豊城へ復帰し、長宗我部氏が再興された。ただ、一説に兼序自身が存命し、周辺豪族と和睦して永正8年(1511)に復帰したともいう。
二層以上の建物があったと考えられる詰ノ段 国親は、本山氏と姻戚関係を結んで従属の姿勢を取りつつ、吉田孝頼を後見とし、一領具足などの整備を急いだ。そして、かつて父兼序を攻めた山田氏を滅ぼし、香宗我部氏には三男親泰を養子として送り込んで勢力を取り込み、仇敵の本山氏に対して反攻を始めたが、浦戸城攻撃中に病を発し、元親に本山氏攻略を託して没した。
 国親の跡を継いだ元親は、姫若子と陰口を叩かれていたが、長浜表での初陣で目覚しい活躍を見せて家臣からの信頼を得、土佐統一に邁進する。その間、岡豊城では、元親が本山氏攻略で出陣中の永禄6年(1563)に、その台頭を警戒した安芸国虎と一条兼定の連合軍が岡豊城へ攻め寄せ、重臣吉田重俊や福留親政の活躍で撃退したということがあった。その後、本山氏に対しては、元親は朝倉城、本山城と重要拠点を攻略して永禄11年(1568)頃に臣従させ、東の安芸氏もその翌年に滅亡させている。
 これで土佐国内の敵対勢力は一条氏のみとなったのだが、長宗我部家としては一条氏に大恩があった。だが、兼定は暗愚で遊興に耽っていた上に諫言した忠臣を討って家臣の心が離れており、元親は天正2年(1574)、兼定追放とその嫡子内政擁立という一条氏の内訌に介入することで実権を奪うことに成功する。後には、内政の室に娘を送り込んで一族化するが、この兼定追放によって、事実上土佐統一を成し遂げたと言えるだろう。
 土佐統一後の元親は、信長に誼を通じつつ、阿波へ積極的に出兵して海部城と白地城を奪い、両城を攻撃拠点として阿波攻略を進め、白地城から讃岐や伊予へも出兵した。阿波は天正10年(1582)の中富川の合戦で十河存保を破って平定し、讃岐は、まず西讃岐を平らげて香川氏に子親和を送り込み、後に存保が阿波から逃げ込んだ虎丸城を包囲して開城させ、存保を本州へ追っている。伊予は、同7年(1579)の南予岡本城の戦いで久武親信を失うなど最も苦戦したが、後に宇和の西園寺氏を降し、最大勢力の河野氏も屈服したことで四国平定が成った。しかし、その直後の同13年(1585)から秀吉の四国征伐が始まり、元親は徹底抗戦を主張するも、弟親泰や谷忠澄の説得で降伏し、土佐一国に戻されている。そして、元親の躍進を支えた岡豊城も、その役目を終えたように、天正16年(1588)に大高坂山へ本拠が移され、廃城となった。
 岡豊城の現在の遺構は、国親が岡豊城に復帰した時に復興整備され、元親の代に拡張されたものと思われる。だが、近世城郭化されずに廃された為、中世的な構造の城に留まっており、最上部の本丸である詰には二層以上の建物があったとされるものの、大きな石垣などは見られない。構造としては、標高97mの山頂に本丸の詰を置き、詰下段を挟んで東に二ノ段、詰の南から西を囲うように三ノ段、さらにその西に四ノ段がある。詰以外では、詰下段や三ノ段に建物跡があり、特に三ノ段には大きな建物があったらしく、建物に隣接するように土塁の内側には1mほど石が積まれていた。また、南西方向には伝厩跡曲輪、南には伝家老屋敷曲輪という出丸があり、南には国分川が流れ、山の麓には湿地や沼田があって防御力を高めていたという。
三ノ段の石積みと礎石 城跡には、発掘調査の成果が再現されたり、説明板が設置されたりしている為、城跡としても散策路としてもかなり快適である。訪れた日は、中腹の歴史民俗資料館の閉館後に散策したので、残暑も和らいで心地よかった。元親は九州征伐の前哨戦である、天正14年(1586)の戸次川の合戦で嫡子信親を失い、以降は家中に暗い影を落としたといわれるが、岡豊城から本拠が移されたのもその直後で、人心刷新や元親自身の心の整理という面があったのかもしれない。やや寂しげな初秋の遺構を眺めながら、そう感じずにはいられなかった。