中岡慎太郎像
所在地  高知県室戸市
室戸市役所南東5.4km国道55号線沿い室戸岬付近
最終訪問日  2004/9/9
室戸岬に建つ中岡慎太郎の像 海軍兵力を持つ坂本竜馬の海援隊と同様、陸軍兵力を持つ陸援隊を率いた中岡慎太郎の立像。昭和10年に地元の青年団連合が建立した。桂浜の坂本竜馬像から遅れること7年の建立で、途中昭和4年の世界恐慌や同9年の室戸台風による被害などがあり、募金集めには大変苦労したという。
 中岡慎太郎は、天保9年(1838)4月13日に室戸岬から北西へ20kmほどの北川郷の大庄屋中岡小傳次の長男として生まれた。幼い頃から付近の私塾で学び、やがて安芸の藩校田野学館に入学して武市半平太と出会う。そして、その知識や武術、人柄に敬服して高知の半平太の道場へ入門した。
 20歳で結婚した後は大庄屋見習いとなり、北川郷の農民の世話役として奔走したが、文久元年(1861)には半平太が結成した土佐勤王党に加わり、いよいよ志士の活動期へと入る。だが、土佐藩は京での政変を受けて前藩主山内容堂が勤王党の弾圧を行った為、長州藩領へと脱藩し、以降は長州系志士と行動を共にして蛤御門の変にも出兵した。
 その後、薩摩と長州の和解を企図し、目的を同じくする坂本竜馬と協力して工作を推し進め、慶応2年(1866)1月に薩長同盟の締結に成功している。そして、翌年には、有事に備えた海軍兵力である坂本竜馬の海援隊に呼応するように、陸軍兵力である陸援隊を結成して隊長に就任し、浪士を集めて武力倒幕の機を窺ったが、竜馬を訪ねた京都近江屋で同年11月15日に襲撃され、翌々日の17日に死去した。享年30。ちなみに竜馬と慎太郎を襲撃した犯人は、京都見廻組の佐々木只三郎らが有力視されている。
 自分の中では、中岡慎太郎は実直に粘り強く動いた志士という感じがしてならない。実際、気さくな人柄で、藩外の多くの人から信用を得ていたという。同じ土佐の志士である坂本竜馬とは薩長同盟という同じ発想を持っていたが、竜馬は経済的な繋がりから薩長を結び付けるという実業家的発想を担い、慎太郎は折衝などの実務的な面を担ったというイメージがある。そして倒幕でも、竜馬は大政奉還という裏技に近い方法を考えたのに対し、慎太郎は兵力面での心配はあるにせよあくまで武力倒幕という現実的な方法にこだわった。だが、それはお互いどちらが良い方法だとか悪い方法だとかいうのではなく、お互いの違いと良いところを認め合い、信頼し合っていたのだろう。それだけに、この2人の早い死がなければ、幕末史はもう少し変わった形になったのではないかと惜しまれる。ちなみに、この銅像は、坂本竜馬と同じ本山白雲の作で、同じ鋳造工場で造られた兄弟像という。生前の信頼関係がそのまま像の生い立ちに繋がったようで、不思議な巡り合わせを感じるのは、気のせいだろうか。