中村城 所在地 高知県四万十市
四万十市役所北西720m
区分 山城
最終訪問日 2004/9/10
中村城の城址碑と石垣 三国司のひとつ、土佐一条氏の詰城。
 一条氏は、公家の中でも最上位にあたる、関白や摂政を出す五摂家のひとつだが、応仁元年(1467)からの応仁の乱で京が荒廃すると、翌年に教房は一条家の荘園があった土佐へ下向した。これには、土佐七雄のひとつである大平氏の支援があったが、教房の室が大平国雄の室の縁者であった為らしい。教房は優秀な政治家だったようで、土地に根を張る国人とうまく折り合いながら失地を回復して行き、土佐一条家の基礎を築いた。教房の死後、子の房家が土佐国人衆に盟主として迎えられたことからも、教房が国人に慕われ、調停者として必要とされていた事が解る。
 教房の跡を継いだ房家は、国人の連合軍に滅ぼされた長宗我部兼序の遺児国親を保護し、勢力を拡大しつつあった津野氏を討伐するなど、一条氏の全盛を築き上げ、子の房通が一条本家を継ぐと自らも正二位まで昇進した。また、上京して公家衆や大内義興と交わるなど、文人としても名が高かったという。
 だが、房家死後の一条家は安泰ではなく、跡を継いだ嫡子房冬がすぐに没した上、さらに跡を継いだ嫡孫房基は、武勇には優れていたが、津野氏の叛乱や国親の台頭に悩んで狂気を発したのか、突如自殺してしまった。そして、房基の跡を継いだ兼定は7歳という幼主で、青年期には伊予や高岡郡に出兵するなどしていたが、やがて遊興に耽るようになり、諫言した忠臣土居宗珊を誅して家臣団の支持も失ってしまう。
二ノ丸跡にある模擬天守 その頃、土佐の中央部と東部を制した長宗我部元親は一条氏攻略に取り掛かろうとしていたが、兼定の行状もあり、危機感を抱いた一条家臣団は天正2年(1574)に兼定を追放して子の内政を擁立し、元親の保護下に入った。一条家では、兼定追放と体制変更に伴う家臣団の内訌がこの後に発生するが、その難を避ける名目で内政は大津城へ移され、元親の傀儡と化す事となる。一説には、一条宗家の内基が、武家化して家格の落ちた一条家を憂い、元親を後見として在地公家化を進めた結果ともいう。
 その後、中村城には元親の弟吉良親貞が入り、天正3年(1575)に中村城の奪回を目指す兼定を四万十川の合戦で退けるなどしたが、親貞は元親の土佐統一後まもなく死去し、後には桑名吉成や谷忠澄といった重臣が城代を務めている。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で長宗我部家が改易となった後は、山内一豊が土佐一国の領主となって中村城に弟の康豊を入れ、康豊かその次男政豊は、慶長18年(1613)に中村城を近世山城へと改修したが、元和元年(1615)の一国一城令によって廃城となった。
為松城と呼ばれる部分の本丸跡 もともと中村城のある為松山には、築城時期ははっきりしないものの、為松城、東ノ城、今城、御城、中ノ森城の5城があったといい、一条氏の下向によって重臣の住む詰城として整備され、総称して中村城と呼ばれたようだ。だが、一条氏が居した中村御所は、兼定がわざわざ藤見の庵を建てて愛したという藤が残っている一條神社付近にあり、この中村城が本格的な城として機能したのは長宗我部時代以降だろう。江戸時代初期に廃城になって以降、城跡は草木に埋もれ、忘れ去られていたが、昭和になってから石垣遺構が発掘され、現在は二ノ丸跡に模擬天守が建っている。この天守は、中村市の象徴のように観光パンフレットにも記載されているが、あくまで模擬天守で、実際に天守閣があったという記録はない。
 訪れた時は、この資料館を兼ねている模擬天守が改装工事中とのことで閉館しており、城に関する情報が得られなかった。城跡に設置されている案内板には、為松城や中村城と書いてあり、どの程度まで遺構を区別して書かれているかは不明である。散策した限りでは、露出している山内時代の石垣と為松城という部分にあたる平坦地は明確だったものの、模擬天守近くに見られる櫓台や土塁のような土盛り、模擬天守下の段々になっている平坦地などは、当時のものか模擬天守建設の時に出来たものなのか判断できなかった。