中浜万次郎像
所在地  高知県土佐清水市
足摺岬灯台北200m県道27号線沿い
最終訪問日  2004/9/10
足摺岬に建つ中浜万次郎の像 ジョン万次郎こと中浜万次郎の立像で、地元の青年会議が昭和43年に建立した。
 万次郎は、そもそもは文政10年(1827)の元旦に足摺半島の中浜の漁村で生まれた漁師である。14歳の時、出漁中に時化に遭い、仲間4人と共に漂流してしまうのだが、運良く太平洋の無人島である鳥島に漂着し、島で143日間を生き抜いた末にアメリカの捕鯨船に助けられた。しかし、鎖国中の日本へ帰る手立てはなく、捕鯨船のホイットフィールド船長に申し出てアメリカへと渡り、アメリカ本土を踏んだ初めての日本人となるのである。
 万次郎は、アメリカで英語や測量、航海術など航海に必要な学問を身に付け、捕鯨やゴールドラッシュに乗じて稼ぎ、小船を購入してようやく仲間と共に琉球へと上陸したが、この時にはすでに漂流から10年の月日が経っていた。琉球上陸後、日本は未だ鎖国体制にあった為、長期間に渡って長崎や高知で取り調べを受けるのだが、願いは通じ、ようやく土佐への帰郷を果たす事ができたのである。
 しかし、当時の世界の趨勢は日本の鎖国を許さなくなっており、万次郎が実際に見た西洋の知識や技能を必要としていた。これにより、運命は再び大きく変化して行く。
 万次郎は、帰郷してすぐに土佐藩の最下級の士分として取り立てられ、翌年には幕府の直参旗本になり、咸臨丸に通訳兼航海士として乗り込むなど、技術を教える講師や通訳として活躍する。泰平の頃であれば漁師として一生を終えていたはずで、考えられない身分の変化だろう。しかし、もとが土佐の漁師だけに、日本語の説明も土佐の浜言葉でしかできなかった為、教えるのはあまり得意でなかったらしい。
 維新後も、東京大学の前身である開成学校の教授や、欧米渡航などの職務を果たしたが、維新後間もない44歳の時に脳出血を発病し、以後は隠棲して残念ながら目立った活躍はなかった。そして、明治31年11月12日に死去。享年71。
 個人的に万次郎のことはそれほど詳しくないが、尊皇攘夷佐幕開国の思想論争が激しかった幕末において、論争とは一線を引き、自分の知識や技術を淡々と日本人に伝え続けた印象がある。思想的なものとは縁遠い漁師の出身で、しかも既にアメリカで民主主義を実体験した身には、そのような思想的な論争は古臭く思えたからかもしれない。何にしても、にわか仕込みの浮ついた志士よりはよほど日本に貢献したというのは間違いない話で、飛び抜けた知名度はないが、幕末から維新にかけてのまさに縁の下の力持ちと言える存在だろう。