窪川城 所在地 高知県窪川町
区分
最終訪問日 2004/9/10
 土佐の国人窪川氏の居城。
 窪川氏は、仁井田荘を領していた五人衆と呼ばれる国人のひとつで、津野氏の流れとも相模の山内氏の流れともいう。当初は津野氏、津野氏が一条氏に滅ぼされた後は一条氏に従っていたようだが、史料には、山内宣澄が元親の侵攻によって戦わずに降ったとあり、元親の勢力伸張によって最終的には長宗我部家に属したようである。
 窪川城の城主としては、前述の山内宣澄のほかに、城主の娘の話であるうすぐも姫の伝承の中では山内常清という名が出てくる。このように、調べると窪川や山内という名字だけでなく下の名も複数見られるので、どれが史実なのかはちょっと混沌としていてよく判らなかった。
 この城がいつ頃築かれ、いつ頃廃されたかは詳らかでないが、土佐の国主であった長宗我部氏が慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後に改易となり、代わって入部した山内一豊が重臣山内一吉に対して、新たに窪川への築城を命じていることから、廃城は山内氏入部の際か、その少し前かと思われる。
 一吉は、古渓山に城を築いて麓に土居を構築し、城下を営んだというが、窪川氏の旧城だけでなく、この一吉の築いた新城についても案内がなかった為、結局所在はわからなかった。