高知城 所在地 高知県高知市
高知県庁北すぐ
区分 平山城
最終訪問日 2004/9/9
二ノ丸から本丸と天守 高知城は山内一豊が築いた城だが、その前身として、南北朝時代の延元年間(1336-40)に、南朝方として活動した大高坂松王丸が高知城のある大高坂山に城を築き、後醍醐天皇の第7皇子である満良親王に比定される花園宮を迎え、北朝方と戦ったという。だが、松王丸に利なく、興国元年(1340)かその翌年に落城して討死を遂げた。また、この時の城は規模が小さく、砦に近いものであったらしい。
 その後、戦国時代の史料に散見されるように、城としての機能は残っていたようだが、重要な城ではなかったようで、次に大高坂の名が大きく登場するのは、桃山時代である。
 土佐の出来人と呼ばれた長宗我部元親は、四国統一をほぼ成し遂げたが、統一後すぐに中央を制した秀吉に敗れて土佐一国に戻された。これに伴い、乱世の防御力重視の城から平時の城へ拠点を移すべく、天正16年(1588)にこの大高坂の古城跡に城を築き、城下町も整備したのである。だが、水害の影響が大きく、元親は在城3年で浦戸へ移らざるを得なかった。結局、再び大高坂山に城が築かれるのは、10年後、長宗我部家に代わって土佐を領した山内一豊によってである。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後に土佐へ入った山内家は、もとは信長に滅ぼされた尾張守護代岩倉織田家の家老を務めた家で、一豊の父盛豊は岩倉織田氏と運命を共にし、一豊自身は流浪中にいくつかの豪族に仕え、やがて信長に仕官した。その後、秀吉付きの与力から秀吉の直臣へと立場を変えたことから重用され、豊臣政権確立の過程で高浜や長浜、そして掛川城主を歴任している。関ヶ原の合戦では、戦い当日にさしたる功はなかったものの、小山会議を始めとする戦前の動きが評価されて土佐一国を得た。これは、豊臣恩顧の大名には手厚く恩賞を与えるという家康の懐柔の方針も影響したようだ。ただ、長宗我部時代の検地高は9万8千石で、掛川時代の石高の約2倍であり、何倍もの加増を企図したものではなかったという説もある。
高知城跡の案内図 経緯はともかく、長宗我部旧臣の叛乱を抑えて翌年に入部した一豊は、最初は浦戸城へと入城したが、すぐ新しい本拠地の選定に取り掛かり、慶長6年(1601)中には高知城の築城を開始した。そして、本丸と二ノ丸の工事がほぼ終了した同8年(1603)に高知へ移っている。城の完成は一豊の死後で、地盤の悪さと城域の拡張で三ノ丸の工事が長引き、同16年(1611)にようやく竣工した。その後、享保12年(1727)に火災があり、大部分の建物が焼失したが、翌年から宝暦3年(1753)までかかって再建され、幕府に対する粘り強い交渉が実って天守再興も許されている。ちなみに、当初は川に挟まれた地形から一豊が河中山城と名付け、後に読みは同じながら文殊菩薩の高い知恵を授かるという意で高智となり、やがて高知になったという。
 城は、四層五階の天守と多聞櫓で囲まれた本丸の北に二ノ丸、北東に三ノ丸を配し、大手がある南東方向に杉ノ段、太鼓丸、搦手のある西に獅子ノ段、御台所屋敷という郭を設け、搦手付近には西ノ丸がある。その他に、現在県庁となっている場所には藩主の一族が居住する御屋敷があり、官庁施設や警察、学校などの敷地となっている北東部分は北ノ郭と呼ばれていた。維新後は、明治6年に表御殿や奥御殿の建物が撤去され、同9年に本丸と追手門以外の建物が払い下げられたが、本丸の天守以下5棟の建物と、追手門や本丸と二ノ丸を結ぶ詰門など4つの門、6つの矢狭間塀が残っており、重要文化財に指定されている。
 訪れた時は、日没前後で薄暗い中の散策となったが、追手門の重厚さは国主の城に相応しく、追手門の近くには一豊の像も建てられていた。実際に城内を歩いてみると、本丸、二ノ丸、三ノ丸に加え、杉ノ段と獅子ノ段の石垣が堅牢で、この5つが主要な郭であったのだろう。残念ながら、天守閣は開館の時間を過ぎていたので入れなかったが、本丸と二ノ丸を結ぶ詰門や高欄の付いた天守は特徴的で、追手門から桝形を通る度に城の雰囲気に重厚さが増し、やがてこれらの建物が次々に現れるというのはかなり良い感じだ。また、一豊と切っても切れない逸話として、黄金10枚の名馬の話があるが、その名馬と良妻賢母の鑑である一豊夫人の像も杉ノ段の近くにある。ただ、一豊の像に比べて城の中核に近い位置にあり、なんとなく知名度が高い分、優遇されているような気がするのは気のせいだろうか。ちなみに、夫人の名は、司馬遼太郎の小説では千代となっているが、史料には名がなく、確たる名前は伝わっていない。
追手門と天守 幕末の土佐藩には、藩主山内容堂こと豊信が四賢侯のひとりとして、また、上士には後藤象二郎や板垣退助などが名を馳せた。だが、倒幕と新政府樹立に関わった薩長土肥の一角にしては、板垣退助の像を除いて城に幕末維新の匂いがあまり無い。やはり土佐の志士といえば、坂本竜馬や中岡慎太郎、武市半平太など、城とはあまり関わりのなかった郷士や庄屋といった正規の藩士ではない階級が中心だったからなのだろう。華々しい城にも、そんな階級制度の影の部分がうっすらと見えるようである。