蓮池城 所在地 高知県土佐市
高知道土佐I.C.南950m
区分 山城
最終訪問日 2004/9/10
本丸跡の広場と城址碑 土佐七雄と呼ばれる有力国人のひとつ、大平氏の居城。
 蓮池城は、この大平氏が築いたのではなく、平家の有力家人であった近藤家綱が嘉応2年(1170)に築城したものである。家綱は地名から蓮池と名乗り、平家に反逆する可能性のあった源希義を討つなどしたが、平家が政権を失ったことによって家綱は滅ぼされ、蓮池城周辺一帯は藤原国信に与えられた。
 国信は建久3年(1193)に大平を称して蓮池城を本拠に定め、子孫は南北朝時代には南朝方として、応仁元年(1467)からの応仁の乱では土佐の守護であった細川氏に属して活躍した。また、続く戦国時代には、一条教房が京の戦乱を避けるのと同時に有名無実化した荘園を取り戻すべく土佐に下向して土佐一条氏の祖となるのだが、これを支援したのは大平国雄で、国雄の室が教房夫人の縁者だった事が理由のようだ。国雄は、京で五山の僧や公家などど交わって文化的素養を身に付け、以後の当主もその風雅を受け継いだという。
 だが、この文化的な素養は戦国大名としてはマイナスに働いた。ともすれば文化的に傾斜してしまうのは他の戦国大名にも見られるが、大平氏の場合も国雄の晩年から元国にかけて現れたようで、元国は永正5年(1508)に本山茂宗とともに長宗我部兼序を敗死に追い込むなどしたが、西から勢力を伸ばしてきた一条氏によって弱体化して行き、西隣の津野氏と同様に没落してしまう。これは、天文15年(1546)の元国の時とも子の国興の時ともいう。
 その後、蓮池氏は一条氏によって戸波へ移されたといい、蓮池城は一条氏の城番によって守られていたが、弘治3年(1557)に一条兼定が伊予へ出兵した隙を衝いて本山茂辰が奪った。兼定は、南伊予の討伐を終えた後、長宗我部氏と本山氏の争いに乗じて蓮池城の奪回に成功したが、今度は本山氏を土佐中央部から追った上、屈服させた長宗我部元親が、永禄12年(1569)に弟親貞に命じて蓮池城を陥落させ、親貞がそのまま城主となっている。
 親貞は、一条氏が内政の代となって長宗我部氏の影響下に入った際に中村城へと移り、その後まもなくして病死するが、蓮池城は親貞の移動後もそのまま保持されたと見られ、子の親実に継承されたようだ。その後、天正14年(1586)に元親の嫡男信親が戸次川の合戦で討死した後、親実は四男盛親擁立の動きに反対して元親に切腹を命じられ、城も廃城になったという。この切腹の年は諸説あるが、一般には天正16年(1588)のこととされている。
さくら広場に残っている土塁 現在の蓮池城は城山公園になっているが、郭跡をよく残したまま公園化されているようで、構造が解り易い。後世の改変も多少あったとは思われるが、櫓台と見られる土盛りを持つ最高部の本丸跡から、北と東に2段の郭、南に本丸に次ぐ規模の逆向きのくの字をした郭と、一段下に方形の段があり、土塁も所々に確認できる。また、本丸跡からの視認性が良く、上から見て城の構造がよく解るのも良かった。地図に城跡の表示がなく、突然城山公園という表示を見つけて寄っただけだったので、期待していなかった分、良い意味で期待を裏切られた。