安芸城 所在地 高知県安芸市
安芸市役所北東1.8km
区分 平山城
最終訪問日 2004/9/9
城跡にある土居の桝形石垣と堀 安芸城を居城としていた安芸氏は、長宗我部元親と激しく争った国虎が有名だが、その歴史は古く、遥か古代から土佐東部を領した豪族である。だが、戦国期以前の系図は明確ではなく、天武天皇元年(672)の壬申の乱で土佐に流された蘇我赤兄の子孫という説が有名だが、藤原氏や橘氏の出自という説や、凡直伊賀麻呂の子孫という説もあるという。いずれにせよ、代々安芸郡司を務めた由緒ある家系で、平家物語にも土佐国住人の安芸太郎と次郎の兄弟が大力の武士として登場し、平教経の入水の道連れとなっている。
 鎌倉時代の土佐についての史料は少なく、安芸氏についても同様だが、安芸城自体は延慶元年(1308)に当主親氏によって築城されたという。時代が下った室町時代にも、土佐守護であった細川氏配下の国人衆として畿内へ出陣するなど、相変わらず土佐国内で有力な勢力であったのは間違いなく、戦国時代に入ってからも土佐七雄のひとつに数えられて富強であった。だが、長宗我部氏が一条氏の保護を受けた国親によって再興され、安芸氏との抗争に敗れて弱体化した香宗我部氏に国親の三男親泰が養子に入り、実質的に安芸氏と長宗我部氏が隣接すると、戦国の常か、両者の間は険悪になっていく。そして、国親の子元親の代となった永禄6年(1563)には、元親が本山氏への攻撃で出陣している隙を衝き、一条兼定の出した援兵と共に岡豊城を攻撃するに至る。しかし、この時は長宗我部重臣吉田重俊や福留親政の活躍もあって城を落とせず、後に兼定の斡旋もあって和睦した。
 その後、永禄11年(1568)頃に本山氏を降した元親は、国虎に対し、岡豊城に来て盟約しようと呼びかけたが、国虎は、呼びつけて盟約を交わすというのは降伏勧告と考え、使者を追い返し、両家の間の和睦は破棄されることとなる。こうして、永禄12年(1569)に元親は安芸郡へと出兵した。元親は、軍を2つに分け、1隊を間道伝いに安芸城の後背にある内原野へと進出させ、矢流で防ごうとしていた安芸軍の動揺を誘い、海沿いを進んだ主戦隊で安芸軍の撃破に成功する。国虎は、尚も安芸城に籠城して兼定の援軍を待ったが、兼定にはその余力も気力もなく、また、寝返った者によって水の手に毒が入れられたこともあり、24日間の籠城の末に自刃して開城したという。また、これ以降、元親によって安芸は安喜と改称されている。
 安芸氏滅亡後、安芸城には親泰が入って東の抑えとなり、後には土佐の中央に岡豊城の元親、西に中村城の吉良親貞、東に安芸城の親泰という、まさに三兄弟が元親を中心として両翼を張るような形となった。親泰はその後、兄の四国統一を助け、阿波攻略戦では海岸沿いの東方面の総大将となり、天正10年(1582)の中富川の合戦などに功を挙げ、上方との外交にも活躍している。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で、元親の跡を継いだ四男盛親は西軍に与して改易され、土佐一国は山内一豊の領地となり、この安芸城にも一豊の流浪時代から付き従っていた五藤為浄の弟為重が入った。城自体は江戸時代の初期、恐らく元和元年(1615)の一国一城令で廃城となったが、五藤氏は麓に居館を構えて郭中と呼ばれる武家屋敷町を造り、やがて家老となって維新を迎えている。
 城の構造は、城山と呼ばれる標高数10mの山上が主郭で、詰ノ段と呼ばれる頂上部の本丸には土塁の跡が残り、その本丸の南北に二ノ丸、南側の二ノ丸の下には三ノ丸があった。また、山裾には石垣も見られ、戦国時代末期頃のものかと思われる。麓には、土塁と石垣の桝形門で囲まれた堀の部分と城山との間に比較的大きなスペースがあり、この平地の部分には、江戸時代に五藤氏の居館が構えられていた。
山裾の埋もれた石垣 散策してみると、山上の郭群の規模はそう大きくなく、しかも中世的で、毒を入れられた井戸も麓にあることから、古くから居館と詰が一体化した城だったのだろう。長宗我部時代にも東の抑えとして改修が入っていると推測されることから、現在の堀と安芸氏時代にあったであろう堀がどの程度同じ位置にあったかは分からないが、大きくは変わらなかったのではないだろうか。また、江戸時代の改修も、桝形の石垣や櫓門程度と思われることから、現在の姿からおおよその戦時の姿が想像することができ、なかなか感慨深い城である。