鶴岡八幡宮
所在地  神奈川県鎌倉市
JR鎌倉駅北東700m県道21号線沿い
最終訪問日  2013/5/18
鶴岡八幡宮本宮 神社本庁の別表神社で、相模国一宮とされる。ただし、国府祭では寒川神社が一宮とされており、鎌倉時代の優遇によって一宮と同格に扱われた為、一宮を称しているようだ。また、三大八幡宮に数えられるが、鶴岡八幡宮の代わりに筥崎宮が入ることもある。
 鶴岡八幡宮の創建は、康平6年(1063)に前九年の役で活躍した源頼義が八幡神を勧進したのが始まりで、最初は今よりも由比ヶ浜に近い現在の材木座の位置にあり、地名を冠して鶴岡若宮と称した。当時の材木座の辺りは海だったというから、まさに海際にあったのだろう。また、頼義は密かに勧進したといわれることから、当時、何か公にできない理由があったらしい。勧進元には、戦勝祈願をした京都岩清水八幡宮と、頼義の生まれ故郷にあって源氏の氏神でもある壺井八幡宮の2つの説があり、勧進後の永保元年(1081)には、頼義の子義家が修復を行ったという。
 それから100年が経った頃、平家一党が栄えて源氏は逼塞していたが、治承4年(1180)に源頼朝が打倒平家を掲げて挙兵し、石橋山の合戦に敗れつつも再起して鎌倉に入ると、頼朝は早々に八幡宮を今の小林郷北山、更に正確に言えば今の下宮の位置へと遷した。源氏に所縁のある神社として、その象徴としたのだろう。ただ、名前はそのまま鶴岡の名前が引き継がれている。
 その後、建久2年(1191)に社殿が焼失したことから、社殿の再興と共に背後にも社殿が造営されて上宮と下宮の体制となり、鎌倉幕府の宗教的象徴として武家の尊崇を集めた。また、数々の幕府行事もこの境内で行われ、神宮寺が創建されるなど益々栄えたという。鎌倉幕府崩壊後も、鎌倉に室町幕府の鎌倉府が置かれた為、鎌倉が関東の政治の中心であることは変わらず、八幡宮も関東の武士に崇拝された。
 しかし、鎌倉府が室町幕府と対立し、そのトップである鎌倉公方足利持氏が永享10年(1438)の永享の乱で幕府に叛旗を翻して敗れ、自刃すると、幕府は鎌倉府を廃絶してしまい、鎌倉の地に暗雲が漂い始める。鎌倉府はその後、持氏の子成氏の時に再興はされるのだが、成氏も享徳3年(1454)末に享徳の乱を起こして関東は2つに割れ、鎌倉は幕府が派遣した今川範忠によって陥落した。これにより、鎌倉復帰を断念した成氏は古河を本拠として古河公方となり、一方、幕府から新たに任命された足利政知も成氏の影響力が強い関東に入れず、伊豆の堀越を本拠として堀越公方となった為、鎌倉は政治的空白地帯となってしまったのである。これ以降の鎌倉はかなり荒れていたらしく、鎌倉大仏の中で博徒が博打を打つというような状態で、最大で25もの院を擁していた八幡宮も、戦国時代末には7院を持つに過ぎなくなるまで衰退したという。
舞殿では結婚式が行われていた このような衰微に拍車を掛けていたのが戦火による被害で、大永6年(1526)には北条氏と敵対する里見義豊が鎌倉に乱入し、この時に八幡宮は焼け落ちてしまっている。この時は、相模を本拠地とする北条氏綱の手厚い保護によって再興されたのだが、その再興の様子は快元僧都記に詳しい。その後、北条氏も天正18年(1590)の小田原征伐で滅亡し、代わって家康が関東の主になると、八幡宮はその保護を受けて堂宇などが復興された。そして、国内の戦乱が完全に収まった文禄年間(1592-96)には、僧坊も12院に回復している。
 江戸時代に入ると、復興を越えて拡張され、様々な門や堂が建てられたが、明治維新になると廃仏毀釈の影響が神仏が習合された八幡宮にも及び、仏教関係の建物が壊され、現在の姿になった。また、神仏習合の結果である八幡大菩薩という名も、明治政府によって廃止となり、この時に社僧も還俗して神主となっている。
 主祭神は、当然の事ながら誉田別命こと応神天皇の神霊である八幡神で、中世には前述のように神仏習合によって八幡大菩薩と呼ばれた。八幡宮ではそれに加え、八幡神と関係の深い女性の神霊である比売神と、応神天皇の母神功皇后を祀っている。ちなみに、この3柱を八幡三神といい、神仏習合の頃は八幡神の本地仏は阿弥陀如来とされていた。
 鶴岡八幡宮と言えば鎌倉随一の観光名所で、訪れたことが無い人でも、大石段下の舞殿と石段上の本殿の写真は、見たことがある人がほとんどではないだろうか。訪れた時も外国人を含めて観光客が多かったが、ちょうど舞殿で挙式が執り行われており、より印象的だった。大石段の脇にあった大銀杏は、鎌倉幕府3代将軍源実朝を甥公暁が暗殺した際に、その陰に隠れて待っていたという話が有名だが、この逸話は江戸時代頃から出てきた話らしい。その真偽はともかく、数年前に強風で倒れてしまったというのをニュースで聞いていたが、実際に見てみると根の部分から新芽が芽吹いており、多少の事では挫けない生命の強さと言うものが感じられた。樹齢1000年といっても、まだまだ植物としては活力のある頃なのだろう。結婚式や大銀杏の新芽を見たせいか、清々しい陽光の下、伝統の中にもなんとも新しい風が吹くような、そんな若々しいイメージを覚えた。