小田原古城 所在地 神奈川県小田原市
JR小田原駅南西600m
区分 平山城
最終訪問日 2013/12/26
小田原城八幡山古郭の縄張図 北条氏時代の小田原城の中心で、一般的には八幡山古郭と呼ばれる。とは言え、現在の小田原城からも戦国期の遺構が発掘されており、両者が全くの別城というわけではない。
 小田原周辺は、古くは大江公仲が早川御牧を領し、後には土肥実平の嫡男遠平が早川荘を領した。そして、この遠平が居館を置いたのが城の最初という。この遠平は小早川を称し、安芸小早川氏の始祖となるのだが、これは、土肥氏の本宗を継承した嫡男の維平が建暦3年(1213)の和田合戦に与して処刑されてしまった為、遠平が晩年に安芸へ居を移したことによる。相模の領地は、維平の件で没収があったと思われるほか、早川荘自体も和田合戦以前に中分されて箱根権現に寄進されており、遠平にとって安芸の領地の方が重要となったのだろう。この安芸国沼田荘の領地を継いだ養子景平の系統が安芸小早川氏となるのだが、景平は三男景光に相模国成田荘飯泉郷を譲っており、少なくともこの頃までは小早川氏が小田原近辺にもまだ領地を保持していたようだ。
 本格的に小田原城が登場するのは室町時代で、大森氏の城として登場する。大森氏は、元々は東駿河の豪族で、鎌倉時代の事跡は少なく、南北朝時代頃から東へと勢力を伸ばし、次第に箱根の権益を掌握していったという。そして、応永23年(1416)の元関東管領上杉禅秀による鎌倉公方への叛乱では、公方の足利持氏が一時大森館に逃れるなど厚い信頼を得、禅秀方であった西相模の土肥氏や土屋氏の旧領を翌年に与えられて西相模へと進出した。この時に小田原城も築かれたという。
 持氏が幕府に対して独立的な動きを見せた永享10年(1438)の永享の乱では、大森伊豆守なる武将が持氏方として上杉憲実方の河村城攻略に活躍し、幕府軍に対しても箱根の水呑で箱根宗徒と共に迎え討ったことが見える。この乱は持氏の敗北に終わり、持氏は自刃して果てるのだが、2年後に結城氏朝が持氏の遺児を擁して結城合戦を起こした際には、再び箱根宗徒と共に呼応して平塚城に籠もっており、依然として伊豆守は親公方勢力であり続けたようだ。この伊豆守なる武将は、頼春の子憲頼に比定されており、乱終結後も平塚城に在り続けたという。つまり、この頃の大森氏の勢力圏は平塚辺りまで広がっていたということになる。
 その後、持氏の遺児成氏が赦されて鎌倉公方再興が成るが、成氏と上杉氏が対立して享徳3年(1455.1)から享徳の乱が勃発すると、成氏が北関東で転戦している間に鎌倉が陥落し、成氏は古河に拠って古河公方となった。これに伴い、相模は扇谷上杉家の勢力圏となり、大森家中でも親成氏の憲頼と親上杉の氏頼の兄弟が対立する。氏頼・実頼父子は、扇谷上杉家の重臣太田道灌と結びつき、扇谷上杉軍の一翼として各地を転戦し、対する憲頼・成頼父子は成氏、そして上杉家に叛いた長尾景春方として上杉軍と戦っていたが、憲頼・成頼父子は文明10年(1478)に平塚城を道灌に落とされ、没落した。これに対し、氏頼は道灌と共に扇谷上杉家を隆盛に導き、道灌の暗殺後は家中の三指に入る実力者となっている。また、小田原城の城下町の整備を行ったのも氏頼で、小田原の街の原型はこの時に造られた。
小峯御鐘ノ台大堀切東堀 氏頼の没後、嫡男実頼は早世したのか、家督は次男藤頼が継いだが、やがて伊勢盛時(北条早雲)によって小田原城を奪取されてしまう。この話は、真偽はともかく各種歴史小説などに詳しいが、時期に関しては、従来の明応4年(1495)ではなく、翌同5年(1496)に早雲の弟弥次郎が大森式部少輔と共に小田原城に籠もって山内上杉軍を迎え討ち、自落したとする史料があることから、これ以降というのが有力となっている。また、この10年ほど後に大森式部大輔と山内上杉顕定の間で書状のやり取りがあることから、大森氏が山内上杉方に寝返った為に扇谷上杉朝良が早雲に奪取を容認したという説も、なかなか説得力があるようだ。それに加え、大森氏で少輔と大輔の2つの官途名が登場することから、氏頼没後の内訌も考えられるのだが、この辺りは新たな史料の発掘が待たれるところだろう。
 こうして早雲は小田原城を手に入れたが、小田原には嫡子氏綱を置き、早雲自身は相変わらず伊豆韮山城を本拠としたままだった。早雲が没した永正16年(1519)前後に氏綱が小田原を本城化し、後に姓も北条に改め、氏綱の代でようやく名実共に北条氏の本城になるのである。以降、氏康、氏政、氏直と代を重ねるごとに改修が施され、特に氏康の時代と氏直の時代に大改修が施された。氏康の代の改修が行われた永禄年間末(1558-70)は、関東経略が一段落する一方で相甲駿三国同盟が破綻した頃であり、武田軍の小田原侵攻を予感してのものだろう。何しろ、関東平野からは奥深く支城網が機能する小田原城も、相甲国境から見れば目と鼻の先なのである。また、氏直時代の改修については、後の大坂城を超える約9kmという規模を誇った惣構の構築が主で、もちろん中央を制した秀吉の軍を意識してのものだった。ただし、小田原城が惣構の嚆矢のような言われ方をすることもあるが、最古の惣構は摂津伊丹城である。
 天正18年(1590)の秀吉による小田原征伐では、北条軍は主力を小田原城に集めて籠城し、兵糧切れを期待したが、秀吉軍はすでに四国征伐や九州征伐で大兵力の運用ノウハウを確立しており、補給が切れることも無かった。そして、3ヶ月の籠城戦を経て7月5日に開城し、北条家は滅んだ。ただ、秀吉軍も小田原城へは力攻めをせず、壮大な惣構が一定の効力を発揮したとも言えるだろう。
 戦後、旧北条領はほぼ家康に与えられ、小田原城にはその家臣大久保忠世が入り、現在の近世城郭の小田原城へと改修した。その後、八幡山は禁足地にも指定されなかったようで、江戸時代の絵図には畑の文字も見える。防衛上、城が丸見えとなる近傍の高地は重要なのだが、泰平の世ではそういう配慮も薄れたのだろうか。
 城の構造は、八幡山部分には、小田原高校南東側の小高い住宅地にあった本丸を中心に、東に東郭、南に南郭、西から北にかけては、西郭と八幡宮を祀った本丸八幡の小郭を配し、西郭北側の現庭球場に鍛冶郭、同じくその西側に藤原平と呼ばれる平場があった。そして、その西北の陸上競技場の位置に祭祀を行ったという御前郭があり、西郭の北東側には八幡郭があったという。また、江戸期の小田原城御用米郭から居館らしき建物跡と庭園跡が、三ノ丸から戦国時代の堀が発掘されており、平時の居館は麓にあったとするのが有力となっている。
東郭から小田原城天守と小田原市街 現在の八幡山古郭は、住宅地と中高校、運動施設が集中する文教地区となっており、閑静な町並みに遺構が点在していた。学校建設や宅地化によって見所は多くはないが、小田原高校の東側が散策路となっているほか、郭跡には石柱が建てられ、城山公園には小峯御鐘ノ台大堀切東堀という巨大な堀切も姿を留めている。また、東郭も整備されて展望台となっており、往時の切岸の感覚が掴め、そこからの近世小田原城や小田原市街の眺めはなかなか素晴らしかった。