三増峠古戦場
所在地  神奈川県愛川町
愛川町役場北西2.6km
最終訪問日  2013/10/12
三増峠古戦場碑 武田氏と北条氏の間で永禄12年(1569)に行われた、山岳戦の合戦場跡。
 戦国時代中頃より、時には争い、時には和していた甲斐の武田家と相模の北条家であったが、それぞれ武田晴信(信玄)、北条氏康が当主を務めた時代、駿河の今川義元を加えてそれぞれが婚姻同盟を結び、有名な甲相駿三国同盟が成立する。この同盟によって三家は主敵を絞った領土拡張に成功するのだが、その途上、義元は永禄3年(1560)の桶狭間の合戦で信長によって落命してしまう。これによる今川領内の動揺や、信玄の信濃経略の完了、信長の台頭といった情勢の変化があり、信玄は次第に南下政策を志向し始め、ついに同11年(1568)には駿河へ侵攻したのであった。これに対し、今川家との同盟を重視した氏康は今川家側に立ち、両家は再び対立関係となったのである。
 武田軍の駿河侵攻は翌年まで幾度も行われ、今川家へ援軍を派遣する北条家を牽制する為、伊豆へも出兵が行われた。こうして今川家は事実上滅び、武田家が駿河の大半を、北条家は領境を固めるべく東駿河を掌握したのだが、このような中で行われたのが信玄による小田原城攻撃である。この行軍は多分に示威的で、鉢形城や滝山城などを攻囲しつつも落とす事無く南下し、小田原城を包囲して挑発したが、北条軍が城を出てこないと知ると、信玄は4日ほどで軍を引き上げた。だが、鉢形城主北条氏邦や滝山城主北条氏照は、6千とも2万ともいわれる軍勢で退路にあたるこの三増峠で武田軍を待ち構え、戦国時代屈指の山岳戦である三増峠の合戦が勃発するのである。
 合戦の概要は諸説あり、不明な部分が多い。大まかには、信玄は山県昌景、小幡信貞の別働隊を発してそれぞれ韮尾根と津久井城に移動させ、自らの本隊は北条軍と対陣した。緒戦は北条方が有利で、北条綱成の突撃によって左翼の浅利信種が討死するなどしたが、甲斐に退却すると見せかけた山県隊が、志田峠から北条軍を急襲すると、北条勢は互いの連携も取れず、津久井城の後詰も抑えられたままで総崩れになった、という流れである。
 ただ、甲陽軍鑑では、三増峠に待ち構えていた北条勢は信玄着陣の際には南西の半原山に移っており、一般的に小説などで語られる、峠で待ち構えた北条勢に武田軍が攻め掛けた、という構図ではない。また、北条方の文書や軍記物は、退却する武田軍に北条軍が戦いを仕掛けたような記述となっており、退却する武田軍が三増峠近辺に布陣し、追撃する北条軍が戦いを仕掛けたというのが実際のところだろうか。現地の案内図でも、北条方が南から攻め寄せるような布陣図となっている。
 合戦に関する史料や文書、書状を見ると、戦闘は10月6日であったとも8日であったともされ、北条方の損害も3千2百余から数10人まで幅広いが、概ね北条方の敗戦を認めているようだ。各史料から見ると、北条方の先陣は三増峠を封殺することはせず、追撃の機会を窺いつつ小田原からの本隊の到着を待ったが、武田軍の小荷駄隊が退却の様子を見せた為、北条方の先陣が突っ掛け、そして返り討ちにあった、というような状況が想像できる。これは、後の三方ヶ原の合戦の徳川軍誘い出しと同じような感じで、予定戦場に引きずり出す信玄得意の誘引戦術だったのかもしれない。
 この合戦は、規模としては決して小さくはないが、両家の規模からすれば、情勢にそれほど大きな影響を与える合戦ではなかった。ただ、信玄は北条家や関東諸豪族に対して武威を示す事に成功し、北条家は武田家の脅威と上杉家との同盟がうまく機能しないという事を理解したという側面があり、氏康死後の甲相同盟の再締結という大きな情勢の変化には、少なからず影響を与えたと見られている。
三増峠の合戦の布陣図 三増峠の合戦は、三増峠を中心として大きな範囲で行われた合戦だが、古戦場碑は愛川中学校の北東約500mの田園の中にあり、付近にランドマークとなるものが無い。碑の前は、三増合戦みちという名前の道路らしいが、見落としたのか目立った案内が無く、県道65号線では曲がる所が分からずそのまま三増トンネルを越えてしまった為、已む無く県道54号線から向かった。交互通行となる馬渡橋のすぐ南、県道から鋭角に分岐する坂を上り、愛川中を過ぎて道なりに進めば、約1kmほどで古戦場碑に着くことができる。