高徳院清浄泉寺
所在地  神奈川県鎌倉市
江ノ島電鉄長谷駅北450m県道32号線沿い
最終訪問日  2013/5/18
日本三大大仏である鎌倉の大仏 鎌倉の大仏で有名な寺院で、公式サイトには鎌倉大仏殿高徳院とある。正確には、大異山高徳院清浄泉寺という。
 鎌倉の大仏は、日本三大大仏として有名だが、その創建に関しては不明な点が多い。吾妻鏡には、嘉禎4年(1238)に寺の所在地である深沢の地で僧浄光の勧進によって大仏の建立が始められ、5年後に開眼供養が行われたとあるが、これは現在の仏像のことではなく、木造の仏像であったようだ。この前身とも言うべき木造大仏が原型となったのか、それとも何らかの理由で失われたのか、建長4年(1252)に再び浄光が勧進した浄財によって造立が始められた金銅八丈の大仏が、今の大仏である。だが、完成時期については現存する吾妻鏡の中には言及が無い為、その創建のきっかけや目的、開基なども不明という。浄財を集めた浄光についても、名の知れた僧ではなかったようで事跡があまり残っておらず、浄光が表に立って勧進してはいるものの実質的には幕府及び北条氏の後援があったと見られている。
 奈良の大仏を見ても分かるように、当然ながら大仏には最初、風雨を避ける大仏堂があった。だが、史料からは建武2年(1335)と応安2年(1369)に大風で倒壊し、明応4年(1495)にも地震と津波で倒壊したことが読み取れる。明応の倒壊は、一般的には3年後の同7年(1498)の明応地震の際の倒壊を誤記したものとされるが、明応4年の地震を示唆する記録が他にも残っていることから、相模トラフを起因とする地震が存在する可能性もあるといい、記録の正誤は今後の研究で明らかになるのかもしれない。
 一方で、文明18年(1486)には露坐であったことが史料に記されていることから、明応の頃にはすでに大仏殿が無かったという説もある。確かに当時の鎌倉は、鎌倉公方足利氏が去った後で荒れており、堂宇再興を支援する勢力も無い状態で、明応地震まで12年、史料通り明応4年とするならば9年しか無く、準備から完成までを考えると短過ぎるすぎるようだ。また、発掘調査においても、応安の倒壊以降に建物があった形跡は確認できていない。また、各種の史料や検証から推定される明応地震での津波では、大仏に辛うじて届く程度で大仏殿への影響は軽微だったと考えられ、倒壊する原因には考えにくいという。つまり、学術的な調査からは明応の頃に大仏殿が存在したという裏付けはできておらず、その頃には既に失われていたという説に幾つかの合理的理由があるのだ。
 つまるところ、大仏のみならず大仏殿に関しても、現状では諸説があって確定していないというのが現状で、新史料の発掘などが求められているといったところだろうか。
 大仏はその後、江戸時代に祐天とその弟子養国が再興し、高徳院清浄泉寺の名称もこの再興時に付けられたという。また、祐天は紆余曲折があった宗派も浄土宗に定め、同じ鎌倉の光明寺の奥之院として位置づけた。ちなみに、寺号は室町時代には大仏寺と称していたようだ。
 本尊の阿弥陀如来坐像は、高さ11.31m、重さ121tであり、国宝に指定されている。作者は不明だが、宋風の特色を持ちつつも運慶快慶に連なる慶派の様式を備えているという。また、定印の中でも上品上生印と呼ばれると手の組み方や、通肩という衣の掛け方にも特徴がある。
 鎌倉大仏は、主要な鎌倉観光のスポットのひとつで、訪れた時も外国人を含めてかなりの人が拝観していた。大仏の胎内と呼ばれる内部は中空になっており、見学が出来る事に驚いたが、よく考えれば各地のランドマークとなる大きな菩薩などの像や、自由の女神も中に入ることができるのだから、宗教的な象徴と見ず観光的視点で見ればかわいいものなのかもしれない。ただ、内部は狭い為、一度に入る人数は制限されていた。
 門前にあたる江ノ島電鉄長谷駅からの長谷通りは、観光日和の土曜ということもあって人も車もかなり多かったが、通り周辺は、海を見つつ坂道を上るとすぐ丘陵になるという鎌倉らしい地形の場所で、古くから拓けていた所であるが故に路地路地の道も狭く、なかなか味がある。このような周辺の雰囲気を含めて、これが鎌倉大仏の良さなのかもしれない。