石垣山城 所在地 神奈川県小田原市
箱根登山鉄道入生田駅南東800m
区分 山城
最終訪問日 2013/5/18
石垣山城縄張図 天正18年(1590)に、秀吉が小田原征伐の際の陣城として築いた城。築城の経緯から、石垣山一夜城などとも呼ぶ。
 小田原征伐の発端は、北条氏による天正17年(1589)の名胡桃城の奪取である。この名胡桃城がある沼田地域は、上杉、武田、北条三氏の争奪地域であり、三氏の同盟関係が変遷する中で複雑な歴史を辿った。やがて、武田勝頼と上杉景勝の同盟が成ると、武田家臣真田昌幸が沼田城を攻略して領有し、天正10年(1582)の武田家滅亡後はそのまま織田家に属したのだが、同年の本能寺の変による織田家臣らの撤退で武田旧領は徳川氏と北条氏の争奪の地となり、昌幸は北条氏、次いで徳川氏と、次々に所属を変えることとなる。その後、両者は甲斐信濃を徳川氏、上野を北条氏の領分として和睦するが、昌幸は信濃と上野に領地を持ち、徳川方では上野沼田領が割譲されてしまう為、今度はこれを嫌って上杉家に属した。これを契機として、上田合戦や北条氏との戦いが発生し、昌幸はこれを退ける事に成功するのだが、結局は秀吉が北条氏有利の形で裁定した為、天正17年(1589)に沼田城は北条氏に割譲されたのである。名胡桃城周辺にはこのような複雑な背景があったのだが、裁定後すぐに真田側に残された名胡桃城を奪うということは、北条方が秀吉の裁定を受け入れないという表明に近かった。ただ、この奪取は沼田城代猪俣邦憲の独断であったとも、仕えていた北条氏邦が主戦派であった為に氏邦の命があったともいわれ、政治的な思惑も絡んだようだが、その真相は定かではない。
四方を石垣で囲んだ井戸郭 秀吉は、名胡桃城奪取を受けて北条討伐を決意すると、同年末に陣触れを発し、翌年3月末より東海道方面と東山道方面の2方面から支城攻略に取り掛かり、東海道を進む主力は早くも4月3日には小田原城に到達した。これと同時に、秀吉は小田原城から西へ3kmの笠懸山に、この石垣山城の築城を開始し、箱根から石垣山に通じる関白道も開削させている。現地説明板には、秀吉はこの城に滞在していた100日余の間に勅使を迎えたり、千利休などの茶匠や淀君らの側室を呼び寄せ、能役者や猿楽師などを呼んで物見遊山のようだったとあるが、史料では、秀吉は当初、箱根湯本の早雲寺を本陣としており、6月25日に石垣山城完成と共に移ったとあることから、包囲中の大半は早雲寺に居たようだ。また、この6月25日の完成をもって東側の木々を夜間の間に切り倒し、北条方には一夜にして城が出現したように感じられたことから、城は一夜城とも呼ばれている。この手法は秀吉が木下藤吉郎時代から得意とした奇策で、墨俣城、伏屋城の一夜城伝説として伝えられ、九州征伐の際の益富城でも使ったという。
 石垣山城が城として機能するようになったのは、前述のように6月25日だが、、7月5日には北条氏が降伏し、同月17日には秀吉は頼朝の奥州征伐に倣って宇都宮へと出発しており、実質的に本陣として使われたのは1ヶ月にも満たない贅沢な城であった。しかも、陣城でありながら、総石垣という手の掛かる工法で築かれており、天下人秀吉の財力や動員力を示すには十分な効果があったのだろう。また、関東での総石垣の城は、この城が最初ともいわれており、一夜にして普段は目にしない壮麗な城を見せられた北条軍は、末端兵士の士気に重大な影響が出たかと思われる。
本丸展望台から小田原城 城の構造は、最高部の天守台から小田原城方向の北東へ本丸、二ノ丸を段々に重ね、天守台の南側に西郭、南東側に南郭を置くというシンプルなもので、この主郭部の北東側先端に水の手の井戸郭、南側に堀切を介して出城が付くが、要所に桝形などを用いているとは言え、一見して防御を重視したものではないというのがすぐ解る城だ。城内で特徴的な部分は井戸郭で、四方の斜面を全て石垣で固めており、水が溜まっている凹部辺りから見回すと、かなり壮観で威圧感もある。
 城の石垣は、江戸時代から関東大震災までの度重なる地震などであちこち崩れており、これらがきちんと修復されていれば、相当素晴らしい城跡になると思われるのだが、崩れたまま放置されているのも古城の趣があっていいのかもしれない。城跡の見所は井戸郭と展望台だろうか。井戸郭は前述のように非常に壮観であり、本丸の展望台は小田原市街を見渡すことができるので、当時の情景を想像することができる。当時の小田原城は八幡山古郭であり、今の小田原城復元天守よりも山側に主郭があったのだが、まさに城内部の動きが筒抜けといった感じだ。天下統一の総仕上げとして、この城から小田原城を眺めていた秀吉は、どのような気分だったのだろうか。そのようなことを想像するのが楽しい城である。