稲村ヶ崎
所在地  神奈川県鎌倉市
江ノ島電鉄稲村ヶ崎駅南東400m国道134号線沿い
最終訪問日  2013/5/17
稲村ヶ崎にある様々な石碑 鎌倉の中心部の南西、江ノ島の東約3.5kmにある、相模湾に突き出した岬で、稲村ガ崎と表記されることもある。太平記や稲村ジェーンで有名。
 稲村ヶ崎は、刈り取った稲穂が積み重ねられた姿に似ているので名付けられたという。積み重ねた稲穂は稲叢と書いて同じくイナムラと読むことから、そもそもは稲叢ヶ崎と書いていたと思われる。また、万葉集に出てくる見越しの崎を稲村ヶ崎に比定する説もあり、鎌倉幕府が置かれる前から知られた場所であったようだ。
 稲村ヶ崎が有名になるのは、鎌倉時代末期である。元弘元年(1331)から始まる元弘の乱の終盤、同3年(1333)に上野国に挙兵した新田義貞が幕府軍を各地で破りながら南下し、鎌倉入りを目指して藤沢まで来たが、幕府軍は7ヶ所の切り通しの防備を固めて破ることができなかった。そこで、守りの薄い稲村ヶ崎を押し渡って鎌倉入りを果たし、幕府を滅亡に追い込んだという。太平記では、この時に義貞が太刀を海中に投じ、それによって龍神が潮を引かせたという描写をしており、太平記の名場面のひとつとなっている。この伝説に関しては、各種の検証によって稲村ヶ崎突破の真偽や日付などに様々な議論はあるのだが、太平記によって稲村ヶ崎が有名になったというのは間違いない。
 その後、江戸時代の幕末には外国船に対する砲台場が造られ、太平戦争時には潜水特攻兵器である伏龍の地下基地が置かれたり、本土決戦時の沿岸防衛部隊による横穴陣地が構築されたりするなど、相模湾に突出する陸地として、陸戦の要衝よりも海防の拠点としての色が濃い時代が続いたが、鎌倉時代から軍事における重要地点というのには変わりが無かった。現在は、その軍事色も無くなり、国道より海側の部分が公園化され、鎌倉湘南観光のスポットのひとつとなっている。
稲村ヶ崎から江ノ島の眺め 七里ヶ浜の東、相模湾に少し突き出している丘が稲村ヶ崎で、西側から見ると、稲村ヶ崎を境に海岸線が見えなくなっており、七里ヶ浜から続く海岸線が稲村ヶ崎で一旦区切られたような感じだった。地形的には、切り通しのある極楽寺辺りの丘陵部がそのまま海まで延びたような感じで、昭和3年に切り通された国道134号線の開削部分が無ければ、義貞が苦労したように、鎌倉方面への巨大な壁のままだったのだろう。ただ、現在でも七里ヶ浜や稲村ヶ崎の国道134号線は路肩の少ない片側1車線の道路で渋滞が頻発しており、車にとっては鎌倉方面への壁と言えるかもしれない。