箱根関跡
所在地  神奈川県箱根町
箱根新道芦ノ湖大観I.C.北西900m芦ノ湖畔
最終訪問日  2013/5/18
復元された箱根関を江戸口御門方向から 江戸幕府が、江戸城の内庭にあたる関八州と西国との出入りを監視する為に設けた関所。
 碓氷関、新居関(今切関)、福島関と並んで幕府に重視された関所で、広義では東海道の脇街道にある川村関、谷ヶ関、矢倉沢関、仙石原関、根府川関の5つの関所を含んだ面的な監視機能として、箱根関と呼ぶこともある。
 箱根の山塊を越える街道は、鎌倉幕府成立以前は北の足柄峠経由であり、箱根峠経由の箱根路ではなかった。当時の足柄峠は足柄坂と呼ばれ、そこより東は坂の東ということで坂東と呼んだ。坂東武者の坂東はここから来ているが、そう呼ばれた平安時代には足柄峠が表街道であったことの証左である。だが、延暦21年(802)から翌年にかけては、富士山の延暦の大噴火でその足柄路が一時的に封鎖されてしまい、新たに筥荷途と呼ばれた箱根峠経由の道がその迂回路として利用された。それまで、駿河相模間の最短路としての需要から間道の類はあったと思われるが、箱根路が正式に街道として整備されたのはこの時である。
 以後、足柄路と箱根路は併用されたが、あくまで主街道は足柄路であった。だが、頼朝が鎌倉に幕府を開くと、京都と鎌倉を結ぶ東海道も新たに整備し直され、鎌倉付近の道が海沿いへと付け替えられたほか、箱根路が足柄路と同等に整備されたという。これにより、鎌倉への最短路となる箱根路が、次第に多く使われるようになった。そして、江戸時代には箱根路が本道として整備された為、その通行を監視すべく幕府がこの箱根関を整備したのである。
 箱根に関する関所としては、昌泰2年(899)に足柄関が設置されており、併用路だった箱根にも同時期に関所が置かれていたようだ。それ以降は、関の東側西側両方にとって通行上、防衛上の要所として考えられ、何か争乱が起こる度に俎上に上る場所となったが、平時はまた別の役目があり、時の権力者による通行料徴収などが行われ、寺社の修繕費などに使われたという。
 室町時代には、三島市の元山中に関所があったことが知られている。当時の箱根路は、推定平安鎌倉古道と呼ばれるルートをほぼ踏襲していたと考えられ、三島大社から元山中を通って海ノ平に出て、芦ノ湖畔を通り、箱根権現を経由して湯本へと向かう街道であったようだ。これが永禄年間(1558-70)に戦国大名の北条氏によって山中城が造られる頃になると、箱根峠西側は現在の国道1号線とほぼ同じになり、関所機能も城に吸収された。その後、箱根峠東側も、天正18年(1590)の秀吉の北条征伐の際に石垣山城への通行路としてターンパイクに近いルートで関白道が開削され、江戸時代には俗に箱根八里と呼ばれる須雲川沿いの新街道が開通し、それに付随する形で監視所としての箱根関の設置へと繋がるのである。ただし、最初の関所は元箱根の箱根権現近くにあり、住民からの苦情の申し立てを経て、元和5年(1619)にこの跡地に移転したという。
 関所は、芦ノ湖と屏風山に挟まれた街道上の隘路にあり、山の中腹から芦ノ湖の湖底にまで杭を打ち、屏風山側には遠見番所、芦ノ湖側には外屋番所を置いて、関所を通らずに越境する者を関所破りとして厳重に監視した。内部は、北東から南西に通る街道両側に高麗門を置き、大番所と足軽番所が向かい合う構造で、周囲はすべて高い塀で囲まれており、厳重さがよく解る。
 俗に、「入り鉄炮に出女」といわれ、軍需品の象徴である鉄砲と、江戸に置かれた各大名の人質たる妻女の出入りは、大名の謀叛や騒乱の兆候を掴む上で非常に大事であった。逆に、江戸から鉄砲が出る際には、その監視目的から外れる為、それほど厳しい制限は無かったという。また、太平の時代が続くと幕府の支配体制も安定し、そのような監視対象ではない庶民には、お伊勢参り等を申請すれば簡易な手形が発行され、比較的簡単に通行できたようだ。ちなみに、この箱根関では、後に同じ東海道の新居関との役割分担が定められ、出女を主に監視していたという。
 関所制度はその後、幕末に入ると文久2年(1862)の文久の改革による参勤交代の緩和や大名妻子の帰国などで最大の役割が失われ、慶応2年(1866)の慶応の改革を経て検問などが行われるだけの存在となり、明治2年(1869)に明治政府によって廃止された。跡地は、大正11年に国の史跡となり、昭和40年には番所が復元されたが、後に克明な関所資料が発見されたことにより、平成19年春に発掘調査に基づいて忠実に復元されている。
江戸口御門から続く杉並木と街道 訪れた時は日没前後で、周辺の土産物屋なども含めて閑散としていたが、おかげて落ち着いて見学できた。夕暮れ時の芦ノ湖畔というのは、観光都市だけあって人がまばらで、なかなか寂びた味がある。関所の江戸口側には、幕府が整備した杉並木が保存育成されており、道幅も当時の幅に戻されているので、杉並木を抜けると関所が見えてくるという街道の雰囲気が味わえるのもまた良かった。ただ、心残りなのは、関所付近から芦ノ湖越しに富士山が見えなかったことだろうか。ここにカメラを置けばベストショットになるよ、というカメラ台もあったのに、それだけが非常に残念だった。