土肥城 所在地 神奈川県湯河原町
JR湯河原駅北西2km
区分 山城
最終訪問日 2013/10/13
土肥城本丸と城址碑 土肥氏が築いたと伝えられる山城。
 土肥氏は、桓武天皇から分かれた桓武平氏である。桓武平氏にも幾つか流れがあるが、土肥氏は第三皇子葛原親王の子か孫である高望王の系統で、この系統は平清盛を出したことから平氏の主流となった。ただ、土肥氏は高望の庶子良文の流れであり、高望の長子国香の流れである清盛とは違う。この為、祖が分かり易いように、桓武平氏良文流と呼ぶ。
 この良文流は、良文が鎮守府将軍として関東に下向したことから関東各地に支族を輩出し、千葉氏や三浦氏などの坂東八平氏と呼ばれる有力な武士団を形成した。土肥氏は、この八平氏のひとつである中村党の分家である。中村党は、現在の小田原市東端の中村川沿岸にあった中村荘に勢力を持っており、その嫡流中村宗平が周辺に開拓地を拡げ、子供らを配したのだが、次男の次郎実平に与えられたのが土肥郷で、実平が土肥を名字としたのが土肥氏の最初という。
 土肥実平は、鎌倉幕府草創の功臣として知られるが、実平が頼朝に味方したのには背景があったようだ。永保3年(1083)から寛治元年(1087)まで続いた後三年の役に活躍した鎌倉景政は、12世紀初頭に大庭御厨を開発して鎌倉党の勢力を拡大したが、これは西への勢力拡大で、やがて中村党との利害が衝突するようになる。また、三浦半島の三浦氏は、海に面した半島の為に勢力を拡大できるのは北西方向しか無く、これまた鎌倉党と衝突する位置関係にあった。このように同じ利害関係にあった両者は関係を深くし、天養元年(1144)の源義朝の大庭御厨濫行には積極的に参加している。だが、平清盛が栄達すると、鎌倉党の筆頭大庭氏は平家の家人となり、その威光を背景に相模で勢力を更に拡大していった。これに危機感を感じた両者が平家打倒を掲げる頼朝挙兵に味方したのである。ちなみに、伊豆国で勢力を持っていた工藤氏は、伊東氏が平家側、狩野氏や宇佐美氏が頼朝側として参陣しており、こちらは分裂の様相を呈していた。
 治承4年(1180)の頼朝挙兵直後の石橋山の合戦では、宗平が頼朝加勢を決したものの老齢の為か参陣しておらず、その嫡男中村重平も早世していたのか参加していない為、次男実平が実質的に中村党を率いることになったようだ。これに対し、平家軍を率いたのは鎌倉党筆頭大庭景親で、表向きは源氏の遺児と平家との戦いであったが、軍勢の中核は鎌倉党対中村党三浦党連合軍の様相だったと言える。だが、三浦氏の軍勢は酒匂川で足止めされて合流できず、片肺飛行の状態で戦いを強いられた頼朝軍は惨敗し、主従7騎ともいわれる状態で土肥郷の椙山に潜んだ。この時、景親配下の梶原景時が頼朝を見付けながら嘘をついて見逃したという逸話が、城からすぐ下の鵐窟でのことだったと伝わる。
 実平は、頼朝と共に潜伏して追手を逃れ、地元の利を生かして諸事を手配し、箱根を経由して真鶴半島から安房へと渡った。そして、頼朝の再起後はその信認を背景に軍の中核にあり、一ノ谷の合戦では、別働隊となって搦手を衝く義経に代わり、義経軍本隊を率いて塩屋口を攻撃するなどしている。また、この合戦後は、備前、備中、備後の惣追捕使にも任命され、西国平定に尽力した。
 だが、建暦3年(1213)の和田合戦に孫維平が加担した為、鎌倉幕府においては土肥氏は栄達せず、土肥郷を領した宗家の事跡は、角力で有名な実綱まであまりはっきりとしていない。また、実綱以降の土肥宗家の動向も断片的で、元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉入りに味方したことが見える程度に過ぎず、室町時代には応永23年(1416)の上杉禅秀の乱に加担して没落してしまったようだ。
 土肥城は、一般に土肥氏の詰城といわれているが、誰が築城したのかなどの詳細は不明である。実平が構えた居館は今の湯河原駅付近にあったとされており、遠く離れたこの土肥城の場所に詰城があったとしても、時代が時代だけに大きな土木工事は施されておらず、天然の地形を最大限に利用した簡素な城だったのだろう。現在残っている遺構は、その頃のものとは違ってある程度複雑で、後世の戦国時代の北条系武将によるものと考えられている。
 城山は現在、麓の城願寺方向、城山バス停、しとどの窟バス停の3つのハイキングコースが通じており、自分が通ったルートでは、城山バス停からは急な30分ほどの登山道、しとどの窟からは20分ほどの緩やかな部分が多い登山道となっていた。ちなみに、麓の城願寺方向の登山道は、1時間ほどの道程らしい。城山山頂からの眺望が良いことから、ハイキングで訪れる人も多く、実際、頂上からの眺めは疲れが吹き飛ぶぐらいの絶景である。
頼朝が房総へ向けて船出した真鶴半島の眺め 城跡としては、山頂部分は平場となっているが、土塁などといった遺構の類は見られず、城山バス停方向やしとどの窟バス停方向も搦手のようで、遺構の類はほとんど無い。城跡の雰囲気があるのは城願寺方向への登山道で、段郭や堀切、土塁、切岸などが残っていた。ただ、山中城のような近世的で複雑な構造ではなかったようで、どちらかといえばやや中世的な印象だ。北条氏時代のいつに改修築城されたかは不明であるが、最末期にはそれほど重視されていなかったのかもしれない。とは言え、登山道が整備され、山頂からの眺めも良く、訪れて損はない城である。