志布志内城 所在地 鹿児島県志布志市
志布志小北側後背
区分 平山城
最終訪問日 2015/10/17
志布志内城縄張図 内城、松尾城、高城、新城という4城から構成される志布志城の中心たる城で、単に志布志城と呼ぶ場合は、最大規模且つ中核であるこの城を指す。非常に広大な城域が状態良く保存されており、国指定の史跡となっている。
 志布志は、島津荘内の港として発展した土地で、初期は救仁院成直が支配していたが、城が築城された具体的な時期は不明という。城が最初に史料に見えるのは南北朝時代で、建武3年(1336)に肝付兼重の属城だった救仁院志布志城が、重久篤兼に攻め落とされた記録がある。だが、この頃は初期の志布志城であり、すなわち峰向かいの松尾城の事だったようだ。
 その後、松尾城には南朝方の楡井頼仲という武将が在ったが、北朝方の畠山直顕と島津貞久による正平3年(1348)の攻撃や同6年の直顕や禰寝清成らによる攻略など紆余曲折を経て、延文2年(1357)2月の落城で自刃した。そして、頼仲没後の松尾城には、島津一族で救仁院を本拠とした新納実久が入る一方で、内城は島津氏と対立していた畠山直顕が掌握しており、これが内城の初見となる。つまり、この頃までに内城が既に築かれており、初期は両城が別個に運用されていたようだ。
 この頃の島津氏と直顕の対立は深刻で、同年中には直顕が実久を攻め、実久は貞久の四男氏久と共同してこれを退けており、更に内城をも掌握したという。その後、貞治4年(1365)頃から氏久が内城を本拠としているが、これは、父貞久から前々年に大隅守護を譲られた為、大隅に近い統治拠点として選ばれたと思われ、以降、20年前後の間、本拠としていたようだ。氏久の後は再び実久が城主となり、以降、実久の系統が城主を務めて南日向の貴重な藩屏となるのだが、島津家中は薩摩守護であった総州家の伊久・守久父子の対立があり、氏久の子でそれを仲裁した元久と伊久もやがて対立するなど、名家に有りがちな争いが増え、その過程で応永8年(1401)には、櫛間の本田忠親が東の陣岳に陣を敷いて志布志城を攻める構えを見せている。この戦いは、伊久の子で元久から養子を解消された久照を忠親が擁したものだったのだが、城近傍の宝満寺付近で実久が領民の協力を得て忠親の軍を破った。
本丸櫓台上の三宝荒神 戦国時代前夜の日向では、宮崎平野を中心に伊東氏が勢力を拡げ、長禄元年(1457)に財部土持氏を降すなど、強大化する過程にあったが、これを警戒した島津氏は、実久の曾孫忠続を志布志から飫肥へ移し、串間に移した伊作家の久逸と共に伊東氏への備えとしている。これに伴い、志布志の本領は忠続の弟是久が継承し、久逸とも関係を深めるべく久逸の子善久と是久の娘常盤の婚姻も成立した。しかし、文明16年(1484)に忠続が久逸の勢力拡大を嫌って伊作に戻すよう宗家の忠昌に運動すると、久逸は伊東氏や大友氏をも巻き込んで叛旗を翻し、飫肥城を攻め、第一飫肥役が勃発している。この時、是久も婚姻関係から久逸に与したのだが、翌年には忠昌自ら援軍を率いて第二飫肥役の激突となり、是久は討死してしまった。ちなみに、この伊作家の善久と常盤の子が忠良で、善久の横死後、その従兄弟にあたる相州家の運久の許へ常盤が再嫁したことから忠良が伊作家と相州家を相続し、子貴久を本家へ入嗣させる勢力基盤を持つこととなる。
 久逸の降伏後、忠続は文明18年(1486)に志布志及び末吉領へ戻され、その後の新納氏の事跡は不鮮明となるのだが、忠続の甥忠武やその子忠勝の頃には周囲の島津一門や伊東氏らと争って勢力を拡げ、宗家の命にも次第に従わなくなったようだ。その後、宗家の家督が、前述の忠良・貴久父子と薩州家の実久の間で争われるようになると、忠勝は周囲の豪族とは反対に貴久を支持した為、天文7年(1538)に豊州島津家や北郷氏、肝付氏の連合軍に城を攻められて降伏し、新納氏は没落した。
 戦後、志布志城には豊州家の忠朝が入り、子忠広の守る飫肥城と共に重要拠点となったが、忠広の養子として北郷氏から入った忠親の代である永禄元年(1558)以降は、南の肝付氏の猛攻に晒され、同5年(1562)に落城している。これは、豊州家が忠広の代である天文14年(1545)に貴久の正統性を認めて和睦していたことが背景にあり、島津氏と肝付兼続が対立したことが直接の要因であった。
 志布志城を得た兼続は、当初は嫡子良兼を入れ、2年後には自らが入城し、隠居城にして更に勢力を拡げたが、同9年(1566)に急死してしまい、以降は肝付氏も斜陽となっていく。ちょうどその頃、この志布志の地頭として見えるのが肝付竹友で、志布志城主も務めたようだが、天正元年(1573)の国合原の合戦に総大将として出陣し、敗死したことが見える。竹友の後任は、志布志市の年表では肝付兼石となっているが、これは廻城の攻防でも活躍した兼名と思われ、肝付氏の島津氏への降伏後の天正4年(1576)の伊東氏攻めで討死したという。
西側の巨大な空堀 その後、伊東氏に大敗して勢力を失った肝付氏は、本拠高山城周辺のみの領有が許され、翌年から志布志は島津氏の領するところとなり、地頭として鎌田政近が入城している。しかし、翌年の政近の都於郡への転出後から、重要性の低下に伴って事跡が不鮮明となり、天正年間(1573-93.1)初期頃に同族の鎌田政広が志布志地頭であったことは見えるが、政広以降は不明で、城も元和元年(1615)の一国一城令の頃には廃城になったようだ。
 城は、前川沿いに南へ伸びる丘陵の南西端にあり、南九州の城らしく鋭く掘り切って各郭を区画した城である。丘陵先端から北東へ矢倉場、本丸、中野久尾、大野久尾と郭群が直線的に並んでいるが、初期は矢倉場と本丸だけだったようで、新納氏時代の頃に北東側へと拡大され、戦国期に現在の形となった。構造も時代を表すように、北東方向へ進むほど、狭く技巧的で険しい構造から、近世的な広い郭へと変化している。
 現在の登城口は、志布志小の裏門付近からと、その200mほど北の2つあり、前者は大手道で矢倉場へ、後者は車も入れる広さで中野久尾と大野久尾の間に通じていた。矢倉場には、出迎えるように垂直に削られた掘切があるが、同じようなものがより古い松尾城にもあり、初期の頃に造られたものかもしれない。矢倉場から本丸にかけては非常に切岸が険しく、少数の兵数で籠もっていた時代を連想させるが、本丸やその後背の中野久尾には桝形を備えた虎口もはっきり見られ、時代の変遷が手に取るように感じられる。また、この本丸は上下2段、中野久尾は空堀に区画された2つの郭にそれぞれ上下段、大野久尾も上下段と、多段構成なのも内城の特徴だろうか。これら主郭とは別に、南東の搦手方向に目を向けると、整備されていないものの幾つも郭が存在し、こちらも重層的な構造である。また、反対側の城の西側には通しで空堀が掘られており、この深さと大きさには美しさを覚えるほどだった。
 大野久尾に関しては、農道開削で上段中央部が破壊されているが、それ以外の部分は往時のままの形で残っており、倒木などで行けない場所はあったものの、非常に満足度の高い城である。城全体としては、回り切れないぐらいの大きさと遺構の数があり、城好きの人にとっては、外せない城のひとつと言えるだろう。