造田城 所在地 香川県まんのう町・綾川町境
高松空港南西6km
区分  
最終訪問日 2010/5/15
造田備中守宗俊埋葬地の碑 羽床七人衆のひとりに数えられた造田氏の居城。
 造田氏の出自は不明で、在地豪族が成長したものか、中央もしくは讃岐の役職を得た一族の支流が入部したものかは判らないが、造田の地名があることから、かなり古くからこの地を治め、やがて地名を名字にしたと思われる。史料に見える造田氏としては佐渡守や備中守の名が見え、現地に建つ碑には、備中守の諱は宗俊と刻まれていた。
 造田城に関する歴史としては、長宗我部元親の大軍に攻められた際、落城を悟った宗俊が城に火をかけて自刃し、子の嶋之助共々滅んだという話が伝わっている。元親が讃岐攻略を本格化させるのは天正6年(1578)で、主君である羽床氏も激しく抵抗しており、造田氏もそれに従ったのだろう。この一連の戦いは、天霧城の香川氏が翌年に降伏し、香川氏の説得によって羽床氏を始めとする中讃諸将も相次いで臣従したことで終結するのだが、造田落城はこの終結前、つまり天正6年からその翌年にかけての事と思われる。
 県道17号線を走っていて、偶然にも造田備中守宗俊埋葬地という碑を見つけたのだが、地図を見ると、首切峠の東南に城山という山があり、そこに造田城があったようだ。付随する城下や居館はこの埋葬地とは峠を挟んで反対側の琴南市街だったと思われ、地図からは、城主に関連してそうな備中地や城下町を示す下木戸といった地名が読み取れる。また、備中地のすぐ西にも城山という地名があるが、こちらは里城だろうか。
埋葬地の碑に隣接する宗俊を祀った小さな社 満濃池へ向かう途中で急に宗俊埋葬の碑を発見した為、城を訪れる時間が無かったが、調べたところによると、城の遺構自体はすでに失われているらしく、周囲に城山へ繋がる遊歩道等の入口も見当たらなかった。その他には、この碑が建っている道をしばらく行くと首切峠という名の峠があるのだが、伝承によれば、落城の際に峠で多くの家臣などが首を切られたことからこの名で呼ばれるようになったという。その中には宗俊の子嶋之助もおり、嶋之助を祀った首切地蔵というのも、道を外れた旧道のところにあるらしい。