虎丸城 所在地 香川県東かがわ市
1km
区分
最終訪問日 2006/5/24
 虎丸の名の由来は、中腹に虎が伏せたような岩があったからとも、城を築いた年が寅年だったからともいわれ、落ち延びてきた護良親王を迎える為に、佐伯秀国が元弘2年(1332)に築城したというが、護良親王がこの地に来たというのは伝承に過ぎないようだ。また、この年は壬申で、寅年でもない。
 その後、戦国時代に寒川元隣が居城していたことがはっきりしており、大内郡と寒川郡、それに小豆島を領して東讃岐に勢力を張っていた寒川氏の、元隣以前からの重要な拠点であったと思われる。
 寒川氏は、讃岐国造の末裔との伝承がある在地豪族で、室町時代は讃岐守護である細川家に従っていたが、細川政元の後継者争いが勃発して細川家中が混乱すると、永正5年(1508)に上洛した大内義興に従っている。その後、細川家中で勢力を拡大した三好氏が讃岐に影響力を及ぼし始め、三好氏と結んだ植田氏や十河氏と対立し、香西氏と共にこれらと戦ったが、後に和睦した。だが、東讃岐の守護代であった安富氏とは対立が続き、天文9年(1540)に大きな合戦があったほか、元亀元年(1570)か同3年(1572)には、安富氏が三好長治を通じて元隣に虎丸城を明け渡させ、当主であった盛定が入城している。
 しかし、このような影響力を持っていた三好氏も、信長の畿内進出や松永久秀と三好三人衆の対立などがあって勢力を大きく後退させた。その上、長治は忠臣篠原長房を滅ぼして国人の支持を失ってしまい、やがて長宗我部元親の援助を受けた細川真之と戦って敗死するのだが、この長房が滅ぼされた時、盛定は長房の娘婿という立場から長治の攻撃を恐れ、虎丸城を出て播磨へ渡り、織田家に属したという。
 その後、十河存保が実質的な三好家の惣領となって織田家の四国討伐の方針に呼応し、四国統一を目指す元親と戦うが、中富川の合戦で敗北して阿波を失い、存保は讃岐に逃れてこの虎丸城に籠った。長宗我部軍の包囲の中、存保は信長の後継者たらんとする秀吉に援軍を要請するも、秀吉は柴田勝家との争いで余力がなく、とりあえず淡路の仙石秀久を引田に向かわせたが、秀久は元親に追い落とされ、孤立した存保も大坂に脱出して天正11年(1583)か翌年に城は落城した。ちなみに、前城主である盛定も存保と協力し、本来の居城である雨瀧城に籠ったが、こちらも盛定が秀久のもとへ逃れて落城している。
 城は、戦国後期に廃城になったようだが、それは元親が制圧した後か、天正13年(1585)の四国征伐の後だろう。恐らく、四国征伐後の大名の整理で廃城になったのではないだろうか。
 虎丸山の位置は地図にも載っていたのだが、登山道の類は記載されていなかった。そこで、とらまる公園に何らかの情報があるかと思って寄ってみたが、案内の類は何も無く、周辺の道路にもそれらしいものは見つからなかった。水主神社の付近に登山道の案内があり、虎丸山については詳しく書いてなかったものの、もしかしたらそこから登れるのかもしれない。