田井城 所在地 香川県高松市
琴電志度線六万寺駅東300m
区分 平山城
最終訪問日 2010/5/14
田井城址碑 中村氏宗が居城とした城で、中村氏は美濃源氏土岐氏の末流といい、天文年間(1532-55)に美濃から入部し、一説にはこの時に中村城を築いたともいわれる。だが、播州諸家姓氏録には、嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で討死した江井通友なる武将が応永15年(1408)に讃岐国の三木中村の城で生まれたと記されており、この中村城は三木郡の北端にあるこの城のことという。つまり、この時には既に城があったという事になり、氏宗築城説は成り立たない。この播州諸家姓氏録に従えば、通友は河野氏庶流三木氏の出であり、瀬戸内に力を持っていた河野氏がこの牟礼付近にも勢力を扶養し、その一派が城を築いて拠点としていたが、やがて戦国期には勢力を失い、新たに美濃から中村氏が入部したという流れとなる。
 この流れの中で、氏宗が美濃から入部したというのは唐突に感じるが、系図や牟礼町史などによると、実際には氏宗の父頼宗が上洛して管領細川高国に仕え、氏宗は高国の養子で最後の管領となった細川氏綱に従って功を挙げ、牟礼の地を与えられたということのようだ。また、三木中村の城とあることから、氏宗が地名から中村を称したのかとも考えたが、元々は出羽国中村庄から称したものらしい。
 氏宗が田井城主となってからの事跡としては、弘治3年(1557)4月に、氏宗が東南すぐの房前から原にかけて勢力を持っていた原采女と戦い、討死したことが見え、氏宗の跡は子の恒頼が継いでいる。そして、天正8年(1580)に城は火災で全焼したようで、これを機に恒頼は峻険な八栗山に城を築いて同11年(1583)に移り、この城には弟の宗貞が入った。ちなみに、この頃の中村氏は十河存保に従っていたが、八栗城築城にあたり、存保に援助を申し入れたが断られ、関係が悪化したという話も伝わっている。
駐車場になっている蓮池側の段と城址碑 土佐に興った長宗我部元親が四国制覇を目指し、天正10年(1582)の本能寺の変での信長の横死によっていよいよその速度を加速させるのだが、讃岐へは同6年(1578)から西讃への侵攻を始めており、十河城や虎丸城を始めとする十河氏配下の諸城は、讃岐統一の最後の障害であった。田井城や八栗城への攻撃は同11年(1583)の事で、寡兵の中村勢は田井城を放棄したと思われ、兵2百をもって八栗城に籠り、陣所とする六万寺から攻め寄せる長宗我部勢を一時は撃退する。しかし、所詮は多勢に無勢、落城必至の情勢を見た恒頼は、八栗城から備前国へと落ち延びたという。そして、この戦いの後、城が使われたという史料が無いことから、田井城はこのまま廃城になったと思われる。一方、落去した恒頼はというと、天正13年(1585)の秀吉による四国征伐後に讃岐を得た仙石秀久に仕えて故郷に戻り、後には九州征伐で豊後戸次川の戦いに参陣し、秀久の改易後は同じく讃岐の領主となっていた尾藤知宣に仕えたという。
 城跡は、ゴルフの打ちっ放し練習場の脇にあり、打ちっ放し用の池となっている蓮池の北西部の台地に城址碑が建てられている。戦国時代の頃からこのような農業用水用の溜池があったかどうかは分からないが、城の防御力を考えると、池が無いのにここに城を築いたとは考えにくく、更には北側の用水路と田が周囲より一段低くなっていることから、当時はここも池の一部か泥田のような地形だったのだろう。つまり、城地は池や湿地帯に突出した丘で、これらを城の防御力に取り込んだ城だったのではないだろうか。
城址碑の北側の用水路沿いに見られる切岸 現在の城は、城址碑のある本丸跡は畑地になっており、ゴルフ場の駐車場から東へ続く段との2段構成となっている。本丸跡には矢竹が生い茂っているほか、端には土塁の跡と思われる盛土があった。また、城址碑の北側へ回ると、そこには切岸が崩れたような地形があり、思ったよりは遺構が確認できる。ただ、城址碑の南側の下段は、駐車場になっている場所はもちろん、その東側もかなり手が入れられてるようで、明らかに造成した地形になっており、池に面した部分は残念ながら往時がどの様であったかを知ることはできなかった。