西長尾城 所在地 香川県丸亀市まんのう町境
琴電岡田駅南1.7km
区分 山城
最終訪問日 2010/5/15
西長尾城鳥瞰図 南北朝時代以来、中讃の豪族長尾氏が居城とした山城。
 南北朝時代の四国では、足利尊氏が建武の新政に叛旗を翻して敗れ、九州へと落ちた際、その一族であった細川一門が四国へと派遣されて現地の勢力を足利方へとまとめたことから、四国、特に阿波、讃岐、土佐は、細川氏の重要な勢力基盤となっていた。また、この功と基盤を背景に、室町幕府内においても重要な地位を与えられるようになり、細川宗家の清氏は、2代将軍義詮の治世で幕府執事にも就いている。だが、清氏の強引な手法が嫌気されたのもあって幕府内の政争に敗れ、やがて敵対する南朝方に降り、最終的には基盤のある四国で再起を図ろうとするも、正平17年(1362)に讃岐の白峰城で従兄弟の細川京兆家の頼之に敗れて討死してしまう。これにより、細川家の惣領は京兆家へと移っていくのだが、この同門同士の争いで讃岐の諸勢力が動員された為、細川氏の讃岐における支配体制がより強固になり、後の勝元や政元の頃に讃岐の国人が中央政治にも参画する重臣として登場してくる要因となる。
 このような一連の流れの中、白峰合戦で功を挙げた三野郡詫間郷筥御崎の海崎元村の子伊豆守が、その恩賞として栗隈、岡田、長尾、炭所の四村を賜り、長尾大隈守元高と名乗ったのが長尾氏の最初という。
 海崎氏は、香西史によれば、藤原純友の討伐令を受けた橘好古の流れとある。だが、討伐軍を率いたのは山陽追捕使小野好古と太宰権帥橘公頼で、純友を捕らえたのも橘遠保であり、橘好古は同時代の人物とは言え、純友とは直接関係無さそうなのだ。つまり、この一文からは、小野好古と橘公頼を混同した可能性が考えられる。また、その一方で海崎氏には、源平合戦に出てくる橘公成(公業)の流れという説もあり、この公成は伊予橘氏の出で遠保の裔という。つまり、好古、公頼、遠保と、どの系統の橘氏かというのは不明ではあるのだが、橘氏の流れというのはほぼ確実なようだ。
西長尾城本丸 元高が西長尾城を築いたのは応安元年(1368)で、その際に支城として各村にも城を築き、炭所に次男と八男を、岡田に三男と五男を、栗隈に四男と六男を配置して支配を強化した。この3つの支城を守る一門家臣は、長尾三家と呼ばれたという。また、本家も大隈守の官途を世襲して中讃の有力豪族として続き、細川家臣として中央の戦いにも参陣している。たが、細川氏が没落した後の動向はよく判らず、戦国時代まで本領を維持していたことから相応の外交や合戦はあったと思われるのだが、詳細は知れない。讃岐では、細川氏に代わって台頭した三好氏に対し、比較的従順だった東讃の豪族に比べ、香川氏などの中讃や西讃の諸将は独立的で衝突も見られるのだが、それに長尾氏も同調したかは不明だ。
 天正6年(1578)から始まる長宗我部元親率いる土佐軍との戦いでは、当主高親は土器川で長宗我部軍を迎え討ったが、衆寡敵せず敗れ、この城に籠城した。やや西の羽床城の羽床氏も同じく城を出て迎え討ち、緒戦を有利に運んだものの、やはり本軍が到着すると大敗し、籠城している。だが、元親は力押しを続けず懐柔策を採り、同7年(1579)に香川信景(之景)が降伏すると、各豪族に対して降伏を勧めさせた。そして、まず羽床氏がこれに応じて開城降伏し、これに倣って高親も長宗我部氏に臣従することを決め、東讃への討伐戦では長宗我部軍として出陣している。
 高親の降伏後、西長尾城には長宗我部家の重臣で讃岐軍代も務めた国吉甚左衛門親綱が入り、城を改修した。この為、城は国吉城とも呼ばれる。だが、長宗我部軍の城として機能した期間は短く、天正13年(1585)の秀吉による四国征伐に元親は敗れ、土佐一国へと押し戻された為、城は廃城となった。
 レオマワールド横を通る道を進むと、テニスコートの反対側にコンクリートの舗装道があり、その入口に西長尾城の案内がある。道にチェーンが張ってあって車で入れないが、目印としては分かりやすい。道を15分ほど登ると城の説明板があり、そこから城跡へ入ることができるが、コンクリート道の終端部分からも城跡へ入ることが可能だ。前者は比較的緩やかで、後者は急斜面を登ることになるが、途中で2本は合流している。
 案内板の所から登ると、いきなり竪堀らしき地形を見ることができるが、説明図によれば水の流れる道らしい。ただ、実質的には竪堀と同じ効果があったと思われる。山の北側峰筋は整備されて視界が広く、幾重もの段郭や土塁もはっきりと確認でき、典型的な中世的山城で非常に良い感じだ。城山頂上の本丸からは、三方に渡って中讃から西讃を眼下に収めることができ、吹き抜ける風が非常に心地良く、かいた汗が報われた。
幾重にも重なる北側の段郭 お椀型の城山山頂部を下り、猫山方向の峰筋に行くと、長細い削平地と櫓台がある。ここは国吉氏が拡張したとされる部分で、比較的平坦であり、居住区画か武者溜りのような機能があったのだろうか。郭の中心が遊歩道のようになっていて、道以外の場所はやや藪化しており、堀切や櫓台などの地形は確認できたが、郭間の区画は不明瞭で分りにくい。
 お勧めとしては、説明板の所から登り、北側峰筋の段郭や土塁を見て本丸に至り、猫山方向に下りて東側の長い削平地を散策するのが、効率が良いと思われる。