丸亀城 所在地 香川県丸亀市
丸亀市役所東南400m県道21号線沿い
区分 平山城
最終訪問日 2006/5/25
内堀から大手一ノ門、二ノ門と天守 丸亀城の前身は、宇多津城ともいう聖通寺城を本拠とした奈良元安が支城として築いたもので、砦のような小城だった。築城時期は不明だが、宇多津城が応仁年間(1467-69)の築城なので、同じ頃かその少し後だろうか。
 その後、土佐から出て四国を統一した長宗我部元親によって天正10年(1582)に奈良氏は追われ、その長宗我部家を天正13年(1585)の四国征伐で降伏させた秀吉は、讃岐を仙石秀久と十河存保に与えた。丸亀は、宇多津城を本拠とした秀久の領地となったが、秀久は翌年の戸次川の合戦で失態を演じて早くも改易されてしまい、秀久の領地を受け継ぐ形で同年末に尾藤知宣が丸亀城主として入っている。ただ、知宣の入国は翌同15年(1587)正月で、前年の年貢は秀久が徴収している上、すでに九州征伐の軍令が出ており、財政難もあって治績らしい治績は残していない。そして、その知宣も、九州征伐の根白坂の戦いで慎重論を唱えて好機を逸したことから秀吉の怒りを買い、領地を没収されてしまう。こうして、九州征伐後の天正15年(1587)から生駒親正が領地を引き継ぐこととなり、また、前年の戸次川の合戦での存保の討死により彼の幼い子供は生駒家の預かりとなった為、親正が讃岐一国を治めることとなった。
 讃岐へ入国した親正は、海際に高松城を築城して治所と定めたが、慶長2年(1597)からは丸亀の古城を西讃の支城とすべく修築を始めている。この修築が近世丸亀城の成立で、城主には子の一正を充てており、領内は政権継承期の共同統治だったようだ。
天守内にあった城の鳥瞰図 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では、親正は西軍に属し、細川幽斎の守る田辺城攻撃に兵を派遣したが、一正が家康の会津遠征に同行した為、戦後には一正に改めて讃岐が与えられた。この時、親正は西軍に付いたことを償う為、剃髪して高野山へ入り、隠居したが、すぐに許されている。
 江戸時代に入り、慶長7年(1602)に一正が高松へ移った後、丸亀城では佐藤掃部が城代を務めたが、元和元年(1615)の一国一城令で一旦廃城となった。その後、生駒家は一正の孫高俊の時、生駒騒動という家中対立を起こして寛永17年(1640)に改易となってしまう。この為、讃岐は分割され、翌年に山崎家治が入部して丸亀藩が成立し、城が再築された。この時の縄張が、現在残っている丸亀城の形である。だが、財貨を投じて高石垣を積み上げたはずの山崎氏の治世は短く、俊家、頼治と続いて絶家となり、代わって京極高和が入部して大手を変えるなどの改修を施し、そのまま京極家が維新まで続いた。
 丸亀城の最初の完成は慶長7年(1602)頃で、一国一城令の際には石垣の上に土を盛り、木を植えて厳しく立ち入りを制限し、破却を最小限に抑えたという。だが、山崎氏の時代から京極氏の時代にかけて再築された城は、生駒氏時代の石垣の上にかなり盛り土をしており、大きく形が変えられたようだ。石垣の一部には野面積みが用いられており、この部分は生駒氏時代のものをそのまま流用したと思われるが、ほとんどが打ち込みハギや切り込みハギで、これらは再築時に築かれたものだろう。
 縄張は、標高66mの亀山頂上部に本丸と天守を置き、その北東に一段下がって二ノ丸、本丸と二ノ丸を囲うように三ノ丸があり、三ノ丸の南側には帯郭があった。そして、これらの山の部分と内堀の間には藩主の屋敷などがあり、現存する藩主玄関先御門が屋敷の入口で、資料館や芝生広場辺りにかけて建物が建てられていたという。
三ノ丸戌亥櫓跡付近から高石垣と天守 維新後は、明治6年に広島鎮台第2分営が置かれて陸軍省の管轄下となり、翌年には兵営が完成、明治9年から10年にかけて天守などの現存する建造物以外が破却された。だが、万治3年(1660)に完成したという天守は、現存天守の中では最小であるものの、高石垣の上にそびえていて存在感があり、高麗門の大手二ノ門、多聞櫓門の大手一ノ門、そして堀と天守が入る構図は絵になる。また、三ノ丸の入口である見返り坂は、20m以上もあるという高石垣の反り勾配が美しく、非常に見応えがあった。