満濃池
所在地  香川県まんのう町
まんのう町役場東南4km
最終訪問日  2011/5/15
堤防前の小島からの眺望 日本最大の灌漑用の溜め池。満濃太郎という名でも呼ばれる。
 満濃池が造られたのは、満濃池後碑文によれば8世紀初頭の大宝年間(701-04)で、その頃の国司である道守朝臣によって工事が行われたとあるが、初期の池の大きさはよく分かっていない。その後、洪水での決壊などがあり、真人浜継が修復工事を試みるも失敗した為、弘仁12年(812)に、唐で水利土木技術を学んだ弘法大師空海が朝廷の命を受けて修築に取り掛かり、工事を成功に導いたという。だが、その後も池では決壊と修復があったようで、満濃池後碑文には讃岐権守の弘宗王による修築などが見える。そして、源平の争乱が終盤を迎えた元暦元年(1184)に決壊した後は、中央政界の混乱もあって顧みられることもなく放置され、跡地は田畑へと変わっていった。
 放置されること約450年、時代は江戸時代となり、天下泰平の恩恵として新田開発が盛んな時勢になると、満濃池が再び注目されるようになる。時の高松藩主生駒高俊は若く、母が藤堂高虎の養女であったことからその後見を受けており、高俊は藤堂家臣であった西嶋八兵衛を迎えて新田開発を依頼した。領内を巡見した八兵衛は、変わり果てた満濃池に着目し、3年計画での修築を決意する。こうして寛永5年(1628)10月19日に堤防修築の鍬入れが行われ、同8年(1631)2月15日に竣工し、3郡44ヶ村へ水を供給する満濃池が復活した。ちなみに、八兵衛は空海による修築の緻密さに驚嘆し、大いに参考にしたという。
 その後、安政元年(1854)にも地震で決壊したが、高松藩執政松崎渋右衛門と豪農長谷川佐太郎らが尽力して明治3年に修築し、近現代に入ると水不足の解消を目指して明治38年、昭和2年、昭和34年と3度の堤防嵩上げ工事が行われた。特に昭和34年完成の工事では、6mもの堤防嵩上げと土器川からの導水路の設置により、貯水量が倍増している。こうして、堤高32m、堤長155.8m、周囲19.7km、最大水深30.14m、満水面積1.385km2、貯水量1540万m3という日本一の規模を誇る灌漑用貯水池となった。ちなみに、形式としては、台形の土の堤防であるから土堰堤拱型となる。
 満濃池周辺は、讃岐まんのう公園や満濃森林公園、ほたる見公園など、自然を満喫できるレジャー施設が多く、訪れる人も多いようだ。堤防から池を眺めてみると、湖のように悠然と広がる岸と、いかにも谷筋に水を溜めたという入り組んだ岸が向かい合っており、印象は左右の岸で随分と違う。しかも、入り組んだ地形は、当然のことながら全容を見ることができず、訪れた時は水量が多くなかったが、それでも池の大きさをただただ実感するばかりだった。