昼寝城 所在地 香川県さぬき市
さぬき市多和出張所北東2km
区分 山城
最終訪問日 2010/5/15
昼寝城最高所に祀られた社 寒川氏が居城とした山城で、そのあまりの要害さから昼寝しても落ちない城という意味で昼寝城と呼ばれた。
 東讃に勢力を張った寒川氏は、景行天皇の皇子である神櫛王の子孫という。神櫛王の子孫がやがて讃岐国造となり、更にその末裔の凡直という氏姓を持つ千継なる人物が延暦10年(791)に公の氏姓、つまり讃岐公への改称を申し出たことが続日本紀に出ているが、この一族が讃岐朝臣として東讃に勢力を築き、その中で寒川郡司をしていた一派が寒川氏である。
 寒川氏は、京都の寺院の寺領であった長尾荘や上久世荘の役職を務めて勢力を蓄え、やがて室町時代には寒川郡と大内郡、そして小豆島を押さえる東讃の雄となり、讃岐守護の細川氏に仕えた。正確な年代は不明なのだが、昼寝城築城もまた、この室町時代頃とされている。細川氏は室町幕府内で大きな権力を持ち、細川家臣となった讃岐の豪族も中央に参画しているが、寒川氏には中央での活動が見られず、一国人としての活動に終始したようだ。管領として半将軍とまで呼ばれた細川政元の横死で両細川の乱が勃発した時も、海側の諸豪族と同様に上洛する大内義興に従っており、細川家臣というよりも独立的な国人らしい身の振り方である。
 国内情勢の不安から義興が山口へ帰った後、大勢力の重しが取れた讃岐は、親細川・三好派と独立的国人が対立するようになっていく。この情勢に合わせ、寒川家当主の元政も、三好家から養子を迎えた十河氏や隣国の安富氏と、大永年間(1521-28)頃から天文年間(1532-55)にかけて激しく争うようになった。ちなみに、この寒川氏と十河氏との争いで勇名を馳せ、鬼十河と呼ばれたのが、三好長慶の弟十河一存である。
 この頃の讃岐の情勢は複雑で、阿波から讃岐支配を目論む阿波守護細川持隆とその重臣三好氏、瀬戸内に影響力を残す大内氏、さらには独立的な国人が入り乱れ、情勢はかなり流動的であった。寒川氏自身は、十河氏とは持隆の仲介で和睦したものの、安富氏との争いは収まらず、天文9年(1540)には昼寝城が安富軍によって兵糧攻めされている。この時は、持隆の救援で事無きを得たのだが、長年の遺恨は元政の子元隣の代にまで残り、やがて安富家当主盛定が三好重臣篠原長房の婿という立場から三好長治に働きかけ、元亀元年(1570)か同3年(1572)に元隣が居していた虎丸城を含む大内郡を割譲させた。これにより、元隣は詰城でもあるこの昼寝城に退くこととなる。
東側の郭の土塁跡 その後、天正3年(1575)に長治の依頼で出陣してきた海部氏によって城が攻撃され、昼寝していても落ちないといわれた堅城が、僅か2日で落城したという。この時の攻撃理由はよく分からないが、長治時代の最末期で統治が乱れており、何か理不尽な要求に反発して討伐されたのかもしれない。落城によって昼寝城は歴史に登場しなくなり、そのまま廃城になったと思われるが、城を失った元隣は長治の弟存保を頼ったようで、同10年(1582)の中富川の戦いでも存保に従い、討死を遂げたという。
 城は、主郭部に東西に並ぶ2つ郭しか無く、その規模も小さい為、城郭単体では中世的な詰城の機能しか無かったと思われる。領主は北側の麓に居館を構え、平時はそこで過ごしたと見られているが、その具体的な場所は判っていない。2つ並んだ郭のうち、社が祀られている西側の郭が城の最高部だが、規模はかなり小さく、大きい櫓台と言っても差し支えないほどで、防御力として主に機能したのは西側の倍ほどの大きさを持った東側の郭だったのだろう。現在の登山道は郭の間に出るが、両者は武者走りのような土橋で繋がっているだけのシンプルなもので、また、東側の郭の東南部には土塁の跡を確認できることから、往時の大手道は、東か東南側にあったと思われる。しかし、削平地の周囲は両方とも矢竹が生い茂り、付属する他の遺構などがあるかどうかは確認できなかった。
 城へは、県道3号線沿いに昼寝城への案内表示があるが、南下してきた方が表示は見やすい。南から来た場合には、峠を越えてすぐに桜の名所という案内図と東屋が建っており、そこから昼寝城の遠景を見ることができる。円錐に近い急峻な山で、攻めるには橋頭堡となる台地が無い為、一気に頂上まで攻め落とさなければ頭上から逆襲を受けそうな山容だ。これを見ると、昼寝をしても落ちないという城名の由来に納得できる。この案内板から少し下ったコーナーの所に案内表示があり、そこから指示通りに細い道を辿ると、そのまま城の登山口へ着く。案内表示が複数あるので迷うことは無いだろう。
東西の郭を結ぶ武者走り 登山道は、細かい礫質の小石が多い為か、一歩一歩が滑って歩きにくい。また、登山道周辺も大きな岩から割れたような石が多く、山全体が脆い岩質でできているようだ。登ること約20分で山頂の主郭部に到着するが、木々が茂って眺望が無く、残念ながら爽快感は無かった。ただ、城跡はある程度下草が刈られており、散策はし易い。と言っても遺構が小さい為、散策はすぐ終わってしまうのだが。個人的には、城がシンプルで小さいのもあってか、説明板にあった古代の信仰集団や鉱物を求める工人集団と寒川氏との関わりが気になるところである。