引田城 所在地 香川県東かがわ市
JR引田駅北東1km
区分 山城
最終訪問日 2006/5/24
引田城の案内図 百済を援護して出兵した白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗れた朝廷は、連合軍が日本にも侵攻してくるのを恐れ、西日本各地に城砦を築いた。高松の屋島にも天智天皇6年(667)に城が築かれたが、引田城に伝わる伝承では、この時に阿倍比羅夫に率いられた引田氏によって支城の城砦がこの地に築城されたとも、連絡する狼火台として構築されたともいう。引田城のその後の詳細は明らかではないが、戦国時代には、寒川氏の配下であった四宮右近が永正年間(1504-21)頃に在城しており、挙山城という名でも呼ばれていた。また、細川配下から大内配下に転じた寒川氏の、勘合貿易の拠点であったという。
 戦国時代中後期の讃岐は、阿波細川家の家臣だった三好氏が勢力を及ぼし、三好家から十河家の養子となった一存やその跡を継いだ存保といった三好一族を中心に動いており、東讃岐の有力豪族であった安富盛定も、三好氏の有力家臣であった篠原長房の娘を室に迎えていた。この安富氏は寒川氏と幾度も対立していたが、盛定は長房を通じて三好長治に働きかけ、安富領と篠原領の間に位置する大内郡の譲渡を寒川元隣に迫り、元隣は武力では敵わないことから、止む無くこれに応じこととなる。この出来事は元亀元年(1570)のこととも同3年(1572)のことともいわれるが、この時、右近の子孫である光武が引田城主を務めており、城が落城したと伝わることから、武力行使を伴う外交交渉であった可能性が高い。
 これ以後、虎丸城は盛定が支配することとなり、引田城には矢野駿河守が城主を務めたが、後に引田城は、実質的に長治の跡を継いだ十河存保の支配下となったようで、天正10年(1582)に存保が中富川の合戦で長宗我部元親に敗れ、虎丸城へと撤退した時には、存保の要請に応じて秀吉が仙石秀久を讃岐に向かわせ、秀久は天正13年(1583)か翌年に引田城へ入城している。だが、勢いに乗る長宗我部軍は引田にも押し寄せ、討って出た仙石軍は緒戦こそ優勢であったものの、元親本隊が押し出してくると兵数の差は如何ともしがたく、散々に破られて城へ戻り、やがて城も落城して秀久は船で脱出せざるを得なくなってしまう。こうして秀吉からの援軍は無くなり、存保も虎丸城を開城したことで、元親による讃岐統一が成ったのである。
 元親によってほぼ統一された四国であったが、天正13年(1585)の四国征伐で秀吉が長宗我部氏を降伏させて土佐へと戻すと、讃岐には関わりのあった秀久と存保が入り、引田城は東讃岐の旧領を回復した存保が支配したようだ。だが、九州征伐の前哨戦である天正14年(1586)の戸次川の合戦で存保が討死してしまい、秀久もその戦いでの失態で領地を没収された為、讃岐一国は尾藤知宣、次いで生駒親正に与えられた。親正は最初、この引田城に入ったが、あまりにも讃岐の東に偏りすぎている為、秀久が本拠とした宇多津城に移り、翌年には高松城を築城している。一方の引田城は、親正が移った後も東の境目の城として維持されたようで、近世山城に改修され、最終的には元和元年(1615)の一国一城令で廃城となった。
 城は、引田港の西側の城山にあり、当初は東南方向、つまり港の方向に口を開いて東北西南の順に郭を結ぶコの字型の城だったらしいが、後に北西方向へ丹後丸などが拡張されたようだ。恐らく初期の城は、その性格からコの字型の開いている海側の部分が大手で、舟入などもあったのだろう。だが、北西の北ノ郭と丹後丸の間に玄関谷や馬屋池という地名があり、こちらにも大手の痕跡がある。これは想像だが、丹後丸拡張によって大手が付け変えられたのかもしれない。実際に丹後丸を散策すると、コの字型の部分で最大の東ノ郭に匹敵する規模で、同等の重要性を持っていたと思われ、海に対する城に陸への対応力も強化して役割の変化を求めたのだろう。この変化を時代的に考えると、生駒氏の頃の改修だろうか。残存する石垣もこの頃の構築かもしれない。
西ノ郭に残っている石垣 現在の城跡には遊歩道が整備されており、その勾配は山の遠景から想像したよりも急峻ではなかったが、麓からなのでそこそこ距離はある。遺構としては、西ノ郭と北ノ郭に石垣が残っており、東ノ郭と南ノ郭、丹後丸の平坦地は非常に分かりやすく、東ノ郭には物見台と呼ばれる場所もあった。ただ、石垣などが堤防資材として持ち出されたりした為、城の一部は改変されているらしい。全体的には、もっと小振りな城を想像していたのだが思ったよりも大きな城で、なかなか満足できる城だった。