天霧城 所在地 香川県善通寺市・多度津町
高松道三豊鳥坂I.C.北3.3km
区分 山城
最終訪問日 2006/5/25
天霧城本丸跡 天霧城は、室町幕府の管領であった細川家の重臣香川氏の居城、詰城であった。
 この香川氏の出自には不明なところが多い。大まかには、永保3年(1083)から始まる後三年の役に活躍した桓武平氏鎌倉景政の末裔というのが通説で、その孫か曾孫とされる家政の時に相模国高座郡香川村に住んで香川を名乗り、後に細川氏に従って讃岐に入部したということであるが、安芸に分出した香川氏の分かれという説や、香川氏と同じ鎌倉党であった越後長尾氏の流れという説もあり、讃岐に入部した人物も景房や景則といった複数の説がある。そのほかにも、讃岐綾君の祖武貝児王の子孫という説もあるという。
 いずれにせよ、管領細川氏が讃岐支配を強化する為に有力な被官であった香川氏を入部させたと思われ、入部後は西讃岐の守護代となり、応仁元年(1467)に応仁の乱を起こした細川勝元の時には、細川四天王のひとりとして和景、元明、景明などの名が出てくる。また、この頃は海に近い多度津城を居城とし、天霧城を詰の城としていたようだが、戦乱が激しくなるにつれ、より防御力の高い天霧城へと居を移したらしい。その後、勝元の子政元が永正4年(1507)に謀殺され、続いて両細川の乱という後継者争いが始まると、細川家中が混乱をきっかけに阿波細川家の家臣三好氏が勢力を伸ばし、それに対抗するように大内義興が上洛した際には、香川氏は大内氏に従っている。
三ノ丸に僅かに残っていた石塁 その後、一度衰退した三好氏が再び長慶の代に勢力を盛り返し、讃岐への介入を深めると、当主の之景は、大内氏を実質的に継承した毛利氏に従って対抗したが、永禄年間(1558-70)の初頭に長慶の弟義賢(之虎)による西讃岐への侵攻があり、大きな衝突もないまま持久戦の末、和睦して三好氏に従うこととなった。だが、三好氏は長慶、義賢、十河一存といった優秀な兄弟が死去し、松永久秀の台頭や久秀と三好三人衆の対立、織田信長の上洛などで畿内の拠点を失って衰退した為、之景はほぼ独立した状態となり、天正4年(1576)には信長に謁見してこれに属している。この時、偏諱を受けて信景に名を変えたというが、一説では之景とは別人ともいう。
 この信景が織田家に属した期間は短く、天正6年(1578)から長宗我部元親の軍が讃岐に侵入して藤目城などを落とすと、その勧告に従って翌年に臣従し、親政とも親和とも書かれる元親の次男を養子に迎えている。その後、元親の讃岐統一に協力して功を挙げているが、天正13年(1585)の四国征伐で元親が秀吉に降伏すると、土佐一国に戻された元親に従って信景と親和の父子も土佐へ去り、天霧城は廃城となった。
 天霧城への登り口は、昔は複数あったようだが、現在は八十八ヶ所霊場のひとつ、弥谷寺からの道が分かり易い。弥谷寺の階段から途中で右手に行き、香川家代々の墓を過ぎて少し階段を上がると、山へ入る道が右手に見える。この道をしばらく行くと隠し砦なる出丸があり、その周辺には人工的な削平地が幾つか見られた。この辺りからしばらく下った後、少し登ると漸く城跡に着く。城は、直線的に本丸、二ノ丸、三ノ丸、三ノ丸の下段と大きく4つの郭があり、本丸には物見台があったという少し高い場所もある。三ノ丸から北側の険しい道には井戸跡もあり、井戸は今も水を湛えていた。
いまだに水を湛えている井戸 弥谷寺に着いた時、その山門近くに階段530段余という字を見つけて帰ろうかとも思ったが、そうそう来れる所でもないので、気合を入れて階段と山道を進んだ。この道はお遍路道になっているようで、お遍路道が白方へ分岐するまではそこそこ広い道だが、下は雨水に削られた悪路で、苔もあって滑りやすい。30分ほど進むと主郭部分へ登る分岐があり、木に巻きつけてあった錆びた案内板にはかすかに井戸の文字と「迷路のよう」という言葉が読み取れたが、後回しにしようと思って何も考えず歩き易い獣道を進んでいくと、途中からほとんど道が無くなり、やがて井戸が見えた。どうやら「迷路のよう」な道のほうを進んだらしい。確かに腕ぐらいの丸太が、分岐するところに道に直交して数本置かれていたのを思い出し、本道はこちらではないという意味だったのを悟ったが、そのようにしてあるところを見ると、間違える人も多いのだろう。井戸を越えてさらに三ノ丸の下段、そして三ノ丸へと登ることができ、石塁も確認できるのだが、ほぼ直登になるので、足に自信のない人は素直に「迷路のよう」ではない道を選んだほうが無難だ。一方、主郭である本丸から三ノ丸下段までの4つの郭は、木も切られて整備されており、それまでの悪路が嘘のようだった。