鳥越城 所在地 石川県白山市
白山市役所鳥越支所北西800m
区分 山城
最終訪問日 2012/5/13
鳥越城案内図 二曲城と共に、百姓の持ちたる国と言われた加賀の一向一揆の最後の拠点となった城。
 永禄11年(1568)の信長上洛により、本願寺は信長と接点を持つが、当初、法主顕如は信長との対立を好まず、要求された矢銭を払うなど融和的であった。しかし、織田軍と三好勢との元亀元年(1570)の野田福島の合戦に一向衆が三好方として参戦し、伊勢長島でも武装蜂起するなど、やがて全面対決の様相となっていく。とは言え、朝廷による和睦の斡旋などもあり、信長包囲網の一角を担いつつも、両者は継続して矛を交えていたというわけでもなかった。
 両者が対立が先鋭化するのは、越前朝倉氏が信長によって滅ぼされ、信長に降った朝倉旧臣間の内訌が一向一揆へと発展した天正2年(1574)からである。しかし、同年には長島一向一揆が完全に制圧され、翌年には越前一向一揆も組織的な抵抗が瓦解し、加賀と本拠石山本願寺のみが残された。そこで情勢の悪化を受けた本願寺は、その祖父の代から対立していた上杉謙信と和睦し、対織田戦線に集中する方針へと転換する。そして、加賀へ派遣された織田家臣梁田広正を押し返すことに成功した。しかし、越前の一向一揆を討伐した織田家臣柴田勝家が与力武将を従え、大兵力で討伐を始めると、一揆勢は次第に押され始め、天正8年(1580)には加賀の支配拠点金沢御堂が勝家の甥佐久間盛政によって陥落したほか、本拠石山本願寺でも顕如が信長と和睦して紀伊へ退去するなど、情勢は悪化の一途を辿っていく。こうして、この鳥越城とそれに隣接する二曲城が、追い詰められた一向衆の最後の拠点となっていったのである。
 両城に籠もった鈴木出羽守と山内衆は、加賀一向衆の中でも有力で、かつ精鋭でもあり、顕如直々に激励の書状を出すほど頼りにする存在であったらしい。実際、加賀討伐を進めてきた織田軍も両城には手を焼き、攻略には相当の被害を覚悟せねばならなかった。そこで勝家は、顕如と信長の講和を餌に一向衆に和睦を呼びかけて頭領達を松任城へと呼び寄せ、出羽守父子を含む19人を謀殺してしまう。こうして指導者層を失った両城は、組織的な抗戦力を失い、勢いに乗る織田軍によって11月に落城した。
本丸大手の枡形石垣と復元された門 しかし、一向衆の抵抗はこれで終わったわけではなく、翌年2月には再び蜂起して鳥越城番吉原次郎兵衛を含む両城の守備兵3百を討ち、城を奪還する。だが、盛政によって再び両城を落とされ、同10年(1582)にも一時奪還に成功するが、再度攻略されて一揆勢3百余人が磔に処されたことにより、一揆は完全に制圧された。そして、この一揆終息に伴って役目を終えた城は、廃城になったという。
 鳥越城は、すぐ隣の二曲城と事跡がほぼ同じなのだが、どちらも築城時期が不明である。しかし、居館と詰城という二曲城の中世的な形態や城の規模を考えると、最初に詰城としての二曲城が築かれ、後に規模の大きい鳥越城が築かれたと考えるのが妥当だろう。両城は、白山西麓の街道を通じた越前一向衆との連絡路上にあることから、一向衆と朝倉氏の対立の中で鈴木氏や山内衆が重要視され、それに伴ってより大きな拠点、つまり鳥越城が必要になったいったのかもしれない。
 鳥越城は、大日山から流れ出る大日川と、白山山系から流れ出る諸流を集めた手取川に挟まれる山塊の突端部の峰筋にあり、両川を天然の外堀として防御線に活用した山城で、両川の上流域と平野部へと出る北側の街道筋の、3方向に眺望が開けている。防御拠点であると共に、川筋の連絡拠点、見晴らしの良さを活用した索敵拠点としての役割も期待されていた城だったのだろう。
 城の構造は、桝形を持つ長方形の本丸を中心に、北方向に後二ノ丸、後三ノ丸、南方向に中ノ丸、二ノ丸、三ノ丸を置き、主郭部分を比較的広い腰郭で囲っている。本丸桝形は、外側が石垣である上、角部が算木積みとなっているなど、戦国時代末期の技術が見られた。桝形に続く中ノ丸と二ノ丸は高低差が無いが、中ノ丸には中ノ丸門や本丸東直下を通る通路の門があるほか、後二ノ丸や後三ノ丸から腰郭で繋がっており、各導線を集約する郭だったようだ。二ノ丸は、東西南の三方向全てを土塁で囲い、土塁上に隅櫓を置き、三ノ丸との間に堀切を穿つなど、かなり防備が整えられており、三ノ丸方向や東の腰郭方向、中ノ丸門からの攻撃を食い止める非常に重要な郭であったことが判る。その先の三ノ丸は、木々が生えたままとなっているが、土塁の虎口などは確認できた。
本丸枡形門から続く中ノ丸 本丸の反対側に目を向ければ、本丸北側に次段として後二ノ丸があり、本丸との間には空堀が穿たれ、北側を土塁で囲っている。この掘切には大きな石が所々に見られ、往時は要部を石垣で固めていたのかもしれない。後二ノ丸の北側は水の手であるアヤメガ池を挟んで大きな後三ノ丸があるが、2段構成のこの郭は独立的で、腰郭と言うには広すぎる削平地を西に持ち、北から東にかけてはアヤメガ池へと繋がる空堀で囲っている。現地で見ると、一城別郭の雰囲気さえ感じられるほど他の郭とは連続性が希薄で、もしかすると、独立的な指揮権を持つ、城主に匹敵する身分の人間が居住していたのかもしれない。
 城全体としては、方形の本丸や、その周辺の空堀や土橋、土塁などが、柴田氏の関わった福井の村岡山城や玄蕃尾城の特徴や雰囲気に近く、また、二曲城との構造の違いも大きいので、一揆勢による自然の地形を利用した縄張を下敷きに柴田氏による改修があったのではないだろうか。山城全体を発掘した例は少なく、本丸、二ノ丸だけではなく後二ノ丸や後三ノ丸にも建物があったことが判っており、戦国末期の城として非常に貴重な歴史資料となる城である。
 大日川沿いの道から、車道が城の腰郭の位置まで伸びており、城へは楽々と登ることが出来た。また、城内も隅々まで整備されており、散策していて非常に気持ち良い。郭や土塁、復元された城門など、城郭に詳しくなくても一目見て解り易くなっており、城をあまり訪れたことの無い人でも気楽に訪れることができる城跡である。