七尾城 所在地 石川県七尾市
JR七尾駅南東4km
区分 山城
最終訪問日 2018/5/28
七尾城鳥瞰図 室町幕府の三管領家畠山氏の分かれである能登畠山氏の居城で、五大山城のひとつ。
 畠山氏は、源平合戦の頃に重忠が見え、もともとは桓武平氏秩父氏流で、武蔵国男衾郡畠山郷の荘司となったことに発する。重忠は、剛直清廉な坂東武者の典型として知られ、一ノ谷の合戦で自ら愛馬を背負って下った話などは有名だが、鎌倉幕府成立後に対立した北条氏によって討たれた。ここで平姓の畠山氏の嫡流は断絶してしまうのだが、重忠の未亡人は足利義純と再婚して義純が畠山家の名跡を継いだ為、以後の畠山氏は源姓となって存続し、足利氏が室町幕府を成立させると、その一族として繁栄する。
 畠山氏初の管領で、中興の祖といわれる基国が没した後、家督は次男満慶が継ぎ、数ヶ国の守護を歴任したが、やがて応永15年(1408)に兄満家を忌避していた将軍義満が死ぬと兄に家督を譲り、自らは能登一国の守護となった。この満慶が能登畠山氏の祖で、満慶が能登に下向して正長年間(1428-29)頃に七尾城を築いたともいわれるが、幕府相伴衆なども務めていたので、ほとんどの期間は在京していた可能性が高い。本格的に下向して守護大名化したのは3代義統の頃で、この義統が七尾城を築城したともいわれる。ただ、当初の城はあくまで簡素な詰城と思われ、守護所も府中に置かれていた。
 この義統は、応仁の乱の原因のひとつのある畠山宗家の内訌では、畠山義就を支援する山名宗全の西軍に加担したが、やがて能登に下向し、加賀の一向一揆に触発された能登の一向一揆を事前に抑えるなど、能登の領国化を進めている。義統の死後、文亀年間(1501-04)に義統の嫡男義元と次男慶致の対立による内訌が発生したが、一向一揆を外圧として和解し、義元の死後は慶致の子義総が跡を継いだ。義総は、国人や一向衆への統制を強めて戦国大名化し、七尾城を本格的な戦国山城に改修して城下町も整えた為、京から戦乱を避けた文化人が多く訪れ、小京都と呼ばれるまでになっている。また、この義総の頃かその少し前には、麓の府中にあった守護所も城内に移され、名実共に七尾城が能登の首府となった。
 しかし、この義総の子義続の時代には、叔父畠山駿河入道の能登乱入や、遊佐続光と温井総貞の対立が発生し、七尾城でも、続光の叛乱で天文19年(1550)から翌年に掛けて籠城しており、一旦落城したようだ。そして、戦後にその責を取ったのか、義続は出家隠退して嫡男の義綱に家督を譲り、俗に畠山七人衆と呼ばれる有力家臣の合議制が成立した為、実権を奪われてしまうのである。その後、同22年(1553)に再び続光が総貞と争って続光が敗れ、国外に落去すると、弘治元年(1555)に権力の絶頂にあった総貞を謀殺して実権を取り戻したものの、これも長くは続かず、帰参した続光や長続連ら有力家臣によって永禄9年(1566)に父子は追放となり、代わって義綱の子義慶が擁立され、これにより畠山氏は完全に権力を失った。その後、義慶と弟義隆は相次いで病没したとされるが、家臣による暗殺ともいわれ、続光や続連は義隆の子で2歳の春王丸を擁立している。
本丸の城址碑と城山神社 一方、信長との対決姿勢を強める上杉謙信は、上条家に入っていた義続の次男義春を擁して天正4年(1576)から能登に侵攻し、七尾城を囲んだ。七尾城の天険を恃む畠山勢はよく持ちこたえたが、翌年になると城内で発生した疫病で春王丸が死去してしまい、尚も信長に救援を要請して対抗しようとする続連に対し、続光や温井景隆らは謙信の調略に応じて長一族を謀殺、そして開城した。ちなみに、「霜は軍営に満ちて秋気寒し…」という謙信の詩は、この城を落とした時に詠まれたという。
 その後、上杉家臣鯵坂長実が城代となっていたが、天正6年(1578)に謙信が病没し、家督争いである御館の乱が勃発すると、能登における上杉家の影響力は大きく後退した。そこで景隆は、他の畠山旧臣と共に織田氏に通じて長実を能登から追放し、七尾城を奪ったが、先に織田家臣となっていた続連の子連龍は復讐の念に燃え、七尾城方と合戦して連戦連勝した為、止むを得ず、景隆は七尾城を織田氏に明け渡している。天正9年(1581)には、織田家から菅谷長頼が七尾城代として派遣され、ようやく能登は落ち着き、次いで能登は前田利家に与えられた。利家は、最初は七尾城に入城して改修を加えたものの、山城は不便であった為、翌年に小丸山城を築いて移ったが、七尾城はこの時に廃城になったとも、しばらく利家の次男利政が城主になった後の天正17年(1589)に廃城ともいう。
 城は、標高約300mの山に築かれており、菊尾、亀尾、松尾、虎尾、竹尾、梅尾、竜尾の7つの峰を持つことから七尾の名が付いた山にある。城は、その中の松尾に主に構築され、最高部に本丸を置き、そこから1段下がって西に遊佐屋敷、桜馬場、西ノ丸と続き、そこから北へ温井屋敷、二ノ丸、巨大な堀切を挟んで三ノ丸が続く。本丸の直下には、調度丸、寺屋敷が高低を持って構えられ、本丸東側には谷筋を挟んで長屋敷があった。これら、主郭部だけでも相当な規模の城となっている。また、そこから枝分かれしている尾根にも、大小無数の郭があった。城の構造を見ると、義続の頃から守護代の遊佐氏や温井氏、長氏といった有力家臣の著しい台頭があった為か、本丸の畠山氏の居館の近くに重臣の居館が並ぶという、独特の構造となっている。
調度丸の主郭部城門跡と右奥の5段の石垣 城を訪れてみると、城の直下まで車道があり、城内は草が刈られ、非常に整備の手が行き届いていて散策しやすかった。城の見所は多く、調度丸の門跡の俺と石垣、見上げる5段の石垣、巨大な桜馬場や三ノ丸、本丸北面の3段石垣、所口湊方向の眺め、無数の堀切や土塁など、挙げればキリが無いほどで、さすが五大山城に相応しい規模と言えるだろうか。城好きに限らず、城に大した興味が無い人でも、中世の構造物の圧倒的な迫力を感じられる城だろう。