小松城 所在地 石川県小松市
小松市役所北西すぐ
区分 平城
最終訪問日 2001/9/15
 梯川を外堀として廻らす平城で、もともと芦原だった湿地帯を切り開いて築城されている為、芦城の別名がある。梯川とそれに付随する湿地が防御の要となっていたのだろう。
 築城の伝承としては、本願寺配下の武将若林長門が天正4年(1576)に築いたというのがあるが、永禄7年(1564)に朝倉義景自ら出陣して小松城を落としたというのが史料にあり、伝承よりも前に城が存在していたようだ。ただ、具体的にいつ頃の築城かというのは分かっていないらしい。
 その後、永禄10年(1567)頃に朝倉氏と一向宗が和睦した為、城は空城になっていたか本願寺に引き渡されたと考えられ、天正7年(1579)には一向宗の籠るこの城を柴田勝家が攻略し、信長は村上義明を城主とした。義明は、賤ヶ岳の合戦での敗北を機に勝家の与力から丹羽長秀の家臣、そして長秀の死後は秀吉の直臣、というようにうまく生き残ったのか、入城以来長らく小松に留まり、慶長3年(1598)になって越後本庄へと移された。義明に代わって入ったのは丹羽長重で、長重は2年後の関ヶ原の合戦の際に、前田利長と浅井畷で戦って降伏し、この小松城にも一時利長が駐屯した。
 戦後、小松は加賀藩領に編入され、前田長種が城代を務めたが、元和元年(1615)の一国一城令で廃城となった。その後、加賀藩3代藩主利常の時に一国一城令の例外として幕府に隠居城と認められ、寛永16年(1639)から大幅な拡張と改修が施された。これが現在残っている遺構である。ただ、改修が大規模すぎたせいか、それ以前の城がどのようなものであったか分からなくなっているらしい。
 利常は鼻毛を伸ばしていたことで有名な大名で、支藩を含めて石高が120万石という最も大きな大名であったが故に、幕府に対しては加賀藩を警戒させないことに腐心したといわれる。金を武には使わず、工芸美術に惜しげもなく使った豪奢さもその戦略の内のひとつといわれているが、それが副産物として今日の優美な加賀文化を培った。そして、この城が幕府に許された事が利常の作戦の成功の何よりも確かな証拠である。ちなみに、利常の死後も城は維持され、城番が置かれていたが、徐々に廃れていったようで、明治6年の廃城令が出る頃にはすでに城地が田畑に開墾されつつあったらしい。
 現在は、三ノ丸跡が城の別名にちなんだ芦城公園として整備されているが、遺構らしいものは何も無く、やや離れた小松高校のすぐ横に天守台を残すのみとなっている。この天守台は切り込みハギで造られて反りがなく、まさにデンと構えているという言葉が相応しいが、芦城公園からも少し離れている為か、訪れる人はまばらのようである。