金沢城 所在地 石川県金沢市
金沢市役所北すぐ
区分 平山城
最終訪問日 2018/5/27
金沢城二ノ丸の菱櫓、五十間長屋、橋爪門 言わずと知れた加賀100万石前田藩の居城。
 金沢城の前身は、尾山御坊や金沢御堂と呼ばれる寺院城郭で、この創建は天文15年(1546)とされる。戦国時代の加賀は、長享2年(1488)に守護富樫氏を倒した一向衆や地侍層が支配しており、百姓の持ちたる国と呼ばれていたが、この尾山御坊は、その一向衆の重要拠点として創建されたものであった。東に浅野川、西に犀川を天然の堀として配した小高い丘の上に築かれていることから、宗教拠点と軍事拠点を兼ねていたことは一目瞭然である。ちなみに、一向宗の法主は摂津の石山本願寺におり、この尾山御坊を本拠にしたことはない。
 加賀を支配した一向宗は、隣国の能登や越中、越前にも影響力を持っていた為、それぞれの国の支配者層と対立し、特に朝倉氏や後の上杉氏となる長尾氏とは激しく対立して幾度も討伐を受けた。だが、戦国末期になって信長が台頭してくると、元亀元年(1570)に石山本願寺からの退去を要求されたことによって一向宗はこれと対立し、同じく信長と対立していた朝倉氏や上杉氏とは和睦して共闘するようになる。しかし、朝倉氏が滅び、上杉氏も謙信没後の混乱で勢力を衰えさせると、天正8年(1580)にはついに佐久間盛政によってこの尾山御坊を落とされ、加賀の一向一揆は瓦解した。
 盛政は寺院城郭だった尾山御坊をそのまま利用して尾山城に改修し、居城としたが、これが金沢城の直接の前身である。その後、天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦で柴田勝家に従って出陣した盛政は、大岩山の中川清秀を討つ功を挙げたが、撤退が遅れ、秀吉軍の逆襲によって勝家軍敗北の端緒を作ってしまい、戦後に捕えられて斬首された。
 盛政に代わって金沢城に入ったのは、賤ヶ岳の合戦で盛政と同じく勝家の陣中にありながら早めに撤退を開始して間接的な敗因を作り、戦後は秀吉に降った前田利家である。利家は、加賀北部2郡を加増されて能登小丸山城から居城を移し、尾山城を改修して金沢城と改名した。
三御門のひとつ河北門 その後、同12年(1584)の小牧長久手の戦いでは越中の佐々成政を撃破するなどの功を挙げ、個人的に秀吉と親しかったこともあって、利家は豊臣政権の重鎮として遇されるようになっていく。だが、慶長3年(1598)の秀吉の没後、政権を支えるべき重鎮の立場にあった利家はその翌年に没してしまい、結果、武断派文治派の対立と家康の独善を許してしまう。そして、前田家もまた、政権奪取を狙う家康の最大の障壁としてその標的となったが、子の利長は家康に臣従することを選び、結果的に江戸期を通じて前田家は生き残ることができた。そして、金沢城も加賀100万石の居城であり続けることができたのである。
 金沢城の本格的な築城が始まったのは天正16年(1588)とされ、その当時に前田家の預かりとなっていた高山右近重友が縄張したという。この時、西丁口から尾坂口へと大手が改められて城の原型が形作られ、初期には天守も建てられていたが、残念ながら天守自体は慶長7年(1602)の落雷で焼失し、再建されることはなかった。また、この頃の城は、現在ほど大きな規模の城ではなかったらしい。その後、寛永8年(1631)の火災によって建物の多くが焼失した際、二ノ丸の拡張などで現在の城の構造へと大きく改変された。その後も幾度かの火災に遭い、天守焼失後にその代わりとなっていた三階櫓も宝暦9年(1759)に焼失して再建されず、明治4年に兵部省の管轄となって廃城となった後も、同14年に櫓などが火災で失われてしまうなど、常に火の災害がつきまとった城でもあったようだ。瓦には積雪に耐えるよう鉛瓦が使われ、建物の壁も腰回りがなまこ壁という北国独特の風貌漂う城であったが、度重なる火災の結果、現存するのは三十間櫓と石川門だけになってしまった。ちなみに、三大庭園のひとつである兼六園は、加賀藩主の庭園で、5代綱紀の時にその原型が造られ、11代治脩が再興、12代斉広の時に命名されたものである。
玉泉院庭園の色紙短冊積石垣 城の構造は、丘陵最高部の本丸を南端に取り、その北西に1段下がって二ノ丸、北東に2段下がって三ノ丸を置き、二ノ丸と三ノ丸の北東側に更に1段下がった新丸があった。水堀は、これら二ノ丸、三ノ丸、新丸の区画としてあり、本丸と二ノ丸は高低差のみとなっている。二ノ丸の西には庭園のある玉泉院丸が高低差を持って置かれ、その先の今の尾山神社付近に水堀を介して金谷出丸を置いていた。ちなみに、兼六園は本丸の南東方向、百間堀を介した先に造られている。
 城跡は、第二次大戦後から平成6年まで金沢大学のキャンパスとして使用され、その後に公園として整備された。なんと言っても見所は菱櫓から五十間長屋、橋爪門の一連の建築物と、意匠があちこちに見られるカラフルな石垣だろうか。この辺り、北国の風情と加賀らしい優雅な遊びが感じられ、非常に特徴的である。このほか、各時代時代の石垣の特徴も際立っており、石垣の資料館と言っても過言ではないほどだ。個人的には、築城時の無骨さを残す東ノ丸北面石垣と、明治期にかなりの改変がされているものの本丸南面の石垣が非常に印象に残ったが、他にも見所が非常に多い城でもあり、非常に満足できる城だった。