二曲城 所在地 石川県白山市
白山市役所鳥越支所西300m
区分 山城
最終訪問日 2012/5/13
二曲城説明板 鳥越城と共に、百姓の持ちたる国と言われた加賀の一向一揆の最後の拠点となった城。フトゲ、あるいはフトウゲと読む。
 この城は、麓に居館を置いていた二曲氏の詰城で、二曲氏が築いたとされるが、その時期は不明という。二曲氏は後に鈴木を称したといい、加賀の一向一揆の頭領のひとりとして登場する鈴木出羽守義明が二曲氏の後裔とされるが、出羽守は鈴木重泰のことともされ、はっきりしない。重泰の所伝としては、紀伊の雑賀衆の鈴木孫市らの一族と伝わり、本願寺の依頼によって加賀に赴任したという説がある。つまり、出羽守が重泰だとすれば、二曲氏とは何ら関係ないということになるのだが、この辺りの真相は歴史の霧の中であり、新たな史料の発掘が待たれるところだろう。
 二曲城のすぐ近くには鳥越城があり、鳥越城の築城時期も不明ではあるのだが、居館と詰城という中世的な形態や、双方の城の規模を考えると、最初に詰城としての二曲城が築かれ、後により大きな鳥越城が築かれると、二曲城はその支城となったようだ。この城は白山西麓の街道筋を通じて越前の一向衆との連絡線上にあることから、一向衆が越前朝倉氏と対立する中で、二曲氏及び鈴木氏が衆徒内で徐々にその重要性を高め、それに応じてより大きな鳥越城が必要になったのかもしれない。
 戦国時代も終盤に差し掛かり、信長が中央で勢力を拡げると、一向宗法主である顕如の住む石山本願寺に対して立ち退き要求が出され、それに反発した顕如が門徒に号令を発して全面戦争に突入するのだが、出羽守は加賀の一向衆内でも有力であった山内衆と共に本願寺に貢献し、後には顕如から激励の書状を貰うほど頼りにされている。しかし、対織田戦線で協力した朝倉氏が滅び、直後の朝倉旧臣の内訌から発展した越前の一向一揆も制圧されると、いよいよ信長は重臣柴田勝家率いる北陸方面軍に加賀討伐を命じ、天正8年(1580)には加賀一向宗の重要拠点である御山御坊が佐久間盛政によって陥落してしまう。また、この陥落と同時期に顕如が信長と和睦して石山本願寺を退去した為、残存する一揆勢は孤軍となった。
二曲城本丸 こうして、二曲城と鳥越城は加賀一向一揆の最後の拠点となり、同年中に織田軍は攻撃を仕掛けるのだが、出羽守率いる山内衆の抵抗は頑強で、攻城には非常に苦心したようだ。そこで、勝家は本願寺と織田家の講和を餌として一揆衆に和睦を呼びかけ、出羽守など頭領達を松任城へと招き、そこでまとめて謀殺してしまう。これにより、指導者を失った一揆衆は組織的な抵抗もできないまま織田軍に攻められ、同年11月に二曲城と鳥越城は落城した。
 だが、山内衆の抵抗はこれで終わらず、翌年2月に蜂起して二曲城の城番毛利九郎兵衛を含む勝家手勢3百を討ち果たし、鳥越城と共に城を奪還する。しかし、佐久間盛政によって再び両城を攻略され、同10年(1582)にも一時奪還に成功するが再度陥落し、一揆勢3百余人が磔に処されてついに叛乱は終息した。そして、この叛乱終息に伴い、城も廃城になったという。
 城は、大日山から流れ出る大日川沿いの山塊の突端部に築かれており、麓の道の駅や一向一揆歴史館などが固まった場所の東側の道を山側に進めば、すぐに登山道が見つかる。登山道は、城のある山と、同じ程度の高さがある南隣の山の間の谷筋で、途中に門跡の喰い違い気味の虎口が見られ、その門跡を過ぎると尾根筋へと入り、直接頂上の本丸に出た。ふと振り返って見ると、この本丸の南隣の山は、城のある峰と標高があまり変わらない上に、大型の火縄銃なら弾が届きそうなぐらいの距離で、城から近すぎる。谷筋に道がある場合、谷筋の両側に郭を置いて攻撃できるようにするのが山城の常であり、また、本丸への対塁としても重要な位置にあることから、この南隣の山にも何らかの城に関連した防御設備が設けられていたのかもしれない。
二ノ丸と思われる本丸下の大きな郭 本丸自体の規模は大きくなく、本丸から北西に腰郭が2段あるのみで、中世の山城を思わせ、2棟の建物と石が敷かれた通路の跡が発掘されている。郭として一番大きいのは、本丸腰郭を下った先にある郭で、ここには武者溜のような兵を駐屯させる機能があったのだろう。この大きな郭の先には堀切と段郭が続き、最後の尾根筋は切岸となっていた。郭の構成から見てもこの尾根筋が大手道であるが、本丸に至るまでの防御設備はシンプルなもので、城全体の規模も大きくなく、中世の詰城の範疇を越えない姿に収まっている。