大聖寺城 所在地 石川県加賀市
加賀市役所西北1km
区分 平山城
最終訪問日 2001/9/15
 大聖寺城の築城時期や築城者ははっきりしていないが、もともとは大聖寺という白山五院に数えられた寺があり、その寺坊跡を城郭に流用したと考えられる。具体的には、在地豪族であった狩野氏が鎌倉時代から南北朝時代にかけて築いたといわれ、太平記に、中先代の乱に呼応して挙兵した北条一族の名越時兼がこの城を攻めて敗死したとあることから、建武2年(1335)には存在していたのは確かなようだ。また、その頃の地頭としては狩野義茂という武将がいたようで、大聖寺城を居城としていたのかもしれない。
 その後、狩野氏は守護大名富樫氏に従っていたようだが、富樫政親が一向衆に敗れて衆徒と土豪による自治が成立した長享2年(1488)かそれ以前に、加賀の歴史から姿を消している。加賀が百姓の持ちたる国となってからは、この大聖寺城が南加賀一向衆の重要拠点となったが、弘治元年(1555)に越前から侵入した朝倉宗滴はこの城を攻略し、逆に一向衆討伐の拠点とした。その後、信長包囲網の為、朝倉氏と本願寺は和睦し、その時に境の城であった大聖寺城は一旦廃されたらしい。
 朝倉家を滅ぼした織田家の勢力が天正3年(1575)ごろに南加賀へ及ぶと、梁田広正が城主となって加賀討伐の拠点となったが、一向衆は根強い抵抗を続け、しばしば大聖寺城も攻撃を受けたという。翌年には討伐軍の主体が広正から織田家随一の猛将柴田勝家に代わったが、同5年(1577)に能登七尾城攻略の余勢を駆って南下した上杉謙信と手取川で戦って大敗し、大聖寺城まで奪われるなど勝家も苦しみ、同8年(1580)になってようやく加賀を平定している。
 織田家による加賀平定後の大聖寺城は、勝家の与力となっていた拝郷家嘉に与えられ、天正11年(1583)に賤ヶ岳の合戦で敗れた勝家が滅ぶと、越前や加賀などを与えられた丹羽長秀の家臣溝口秀勝が城主となり、長秀没後に秀吉の直臣となった秀勝が越後新発田に移ると、代わって山口宗永が入封した。宗永は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では西軍に与したが、東軍となった前田利長に攻撃されて落城し、宗永は自刃、子修弘は討死している。
 戦後、加賀は利長の領国となり、津田重久や子の重次が城代となっていたが、城は元和元年(1615)の一国一城令で廃城となった。その後、前田利家の子で3代藩主の利常が三男の利治に大聖寺を分封し、大聖寺藩7万石が成立したが、城は再興せず、麓に陣屋を構えて統治している。
 城は、標高100m未満の山を全体的に城郭化しており、山頂の本丸を頂点に、尾根筋に二ノ丸、三ノ丸、西ノ丸、鐘ヶ丸、戸次丸、東ノ丸等の郭群が配置され、北から西にかけては大聖寺川があり、東には熊坂川、三谷川があって天然の堀として活用された。また、江戸時代は御料地として入山が禁止されていた為、城の遺構は良好な状態で残っている。
 現在は、山を一巡する遊歩道が整備されているが、整備され過ぎて城の雰囲気を壊してしまっているような感じではなく、適度に自然を残した古城の趣があった。2度目の訪問は雨にたたられ、散策は断念したが、最初に来た時にはちらほら散歩する人も見かけたので、市民の良い散歩道にもなっているようだ。
縄張俯瞰図