由良古城 所在地 兵庫県洲本市
区分
最終訪問日 2003/6/7
 近世に由良城とも呼ばれた成山城と区別して、由良古城や単に旧由良城とも呼ばれる。
 淡路は昔、淡路国として一国を成し、室町時代には四国と本州を結ぶ交通の要衝であった。この紀伊半島から淡路、瀬戸内という海域を重要視した室町幕府2代将軍義詮は、熊野の海賊衆であった安宅頼藤に沼島の海賊退治を依頼し、頼藤はその時に本拠としての由良城と、7つの支城を淡路各地に築いたという。
 安宅氏は、清和源氏小笠原流とも橘氏の流れともいわれ、小笠原氏流説では、鎌倉末期の頼春の頃に四国阿波から熊野海賊制圧の為に紀伊国多知に移り、地名を名字である安宅に改めて本拠にしたとされる。ただ、阿波の安宅氏については、藤原氏としている史料もある。どちらにしろ、南北朝時代に将軍である義詮から海賊退治を依頼されたというから、海賊衆としては大きな勢力を持ち、比較的幕府に近い存在であったらしい。また、鎌倉時代の淡路は小笠原氏が守護であり、沼島海賊も小笠原傘下であった為、安宅氏が小笠原流とするならば、小笠原残党と同じ一族でありながら対立していた安宅氏に退治を命じたという可能性もある。
 ともかく、安宅氏はこの海賊退治を機に淡路島に進出し、その功によって阿波にも地頭職を得、紀伊水道一帯から瀬戸内にかけて勢力を誇ったが、これは足利将軍家の有力庶族細川氏の領国である四国と畿内を結ぶ海路を任されていたことを意味し、幕府から大きな信頼を得ていた証拠である。
 南北朝以降の安宅氏は、その地勢的な関わりから管領細川氏に従っていたが、やがて家中に内紛が起こって勢力を衰えさせ、細川家中で三好長慶が台頭すると、その弟冬康を迎えて三好配下に組み入れられた。
 三好氏が将軍義昭を擁立した信長によって畿内から追放されると、冬康の子の信康や清康は信長に一時従ったが、やがて毛利に与すようになり、天正9年(1581)に秀吉による討伐を受けて由良城は落城、本城になっていた洲本城も開城して安宅氏の200年に及んだ淡路支配は終わった。その後、いつ廃城になったかはよく分からないが、慶長18年(1613)には成山城が築城されているので、その頃には廃城となっていたはずである。
 訪れた時は、地図にも現地にも城に関する案内がなく、場所を確定できなかったが、古城山という山にあるらしい。城を探しつつ、淡路島東南端の生石公園に登ってみたのだが、ここは幕末から太平洋戦争まで砲台がおかれていた場所で、海が一望できる。後で知ったことだが、かつては由良城の出丸があった場所らしく、その時は知らずにただ絶景を眺めていたのだが、なるほど、海賊の本拠に対する立地条件としては最高の場所である。