由良城 所在地 兵庫県洲本市
洲本市役所南東7.1km成ヶ島北端
区分
最終訪問日 2013/9/15
由良から由良城のある成ヶ島の眺め 成山城とも由良成山城とも呼ばれ、安宅氏所縁の中世の由良古城とは区別される。
 由良には南北朝時代以来、熊野水軍であった安宅氏の本拠が海を挟んだ淡路島側にあったが、天正9年(1581)に秀吉によって討伐され、以降は仙石氏、脇坂氏という秀吉子飼いの武将が淡路を支配し、洲本に本拠地を置いた。子飼いという人選は、大坂に近い淡路が重要視されていたことを物語っている。
 その後、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦を乗り越えた脇坂氏は、慶長14年(1609)に伊予へ転封となり、藤堂高虎の預かりを経て淡路は池田輝政に与えられた。そして、その三男忠雄が、同18年(1613)に本拠として築城したのがこの由良城である。この差配は、輝政へのものというよりも家康の外孫となる忠雄に対しての処遇で、築城に関しても、忠雄は幼少の為に指示を出せるわけも無く、実務に携わったのは輝政やその重臣であったのは間違いないところだろう。これらの経緯からは、外祖父や実父、有力家臣ら総出で忠雄を盛り立てたような印象があり、その優遇ぶりが窺い知れる。
 成山は、元々鳴山と書かれていたらしく、法螺貝の鳴る山という意で、また、地勢的に考えても、中世には由良古城を本拠とした安宅氏の見張台や船の係留地など、何らかの軍事施設があったのだろう。この城は、それらを利用して再築されたものか、新たに構築し直されたものかは分からないが、結果的には海賊衆であった安宅氏時代の由良城よりもより海城らしい城となっており、大坂の豊臣氏への抑えという当時の時勢と、京や大坂への交通の便の良さや良港としての城下の発展を考えた築城ではなかっただろうか。
 しかし、池田氏の城としての期間は2年と短く、兄の死によって忠雄が岡山城主に転じた為に淡路は幕府天領となり、その後、慶長20年(1615)の大坂の陣の功によって徳島藩主蜂須賀氏に淡路一国の加増が充てがわれた。蜂須賀氏は、由良城に城番を置いて統治していたが、後に筆頭家老であった稲田示稙が城代になって淡路一国の統治を任されると、由良の地は狭隘として寛永8年(1631)から4年かけて洲本へと本拠を移し、城は廃城となってしまう。この時の様子は由良引けと呼ばれ、武家屋敷や8つの寺が洲本へ移動した為、城どころか町の賑わいまでも由良は失ってしまうのだが、江戸中期には湊の開削工事などをして、湊町としての再出発に成功した。
由良周辺案内図 城は、運河状の海を挟んで由良のすぐ先に浮かぶ成ヶ島の成山にあり、島へは渡し舟が出ている。昔は国民宿舎があったらしいのだが、今ではそれも無くなり、潮干狩りや夏のキャンプなどでやや賑わう程度のようだ。最初に由良を訪れた時は渡し船の存在を知らず、無人島の成ヶ島へは漁船をチャーターするなど特殊な方法でしか行けないものと思っていたが、その後に渡し船の存在を知ってリベンジする機会を狙っていた。しかし、泊りがけで行った2度目は、まさかまさかの台風直撃でまたしても成ヶ島へ渡る事ができず、自分にとってはなかなか巡り合わせの悪い城である。