養宜館 所在地 兵庫県南あわじ市
南あわじ市役所北東1.8km
区分 平城・居館
最終訪問日 2013/9/16
養宜館案内板 淡路の守護所であったとされる居館。
 鎌倉時代の淡路国守護は、小山氏や結城氏の同族である長沼氏であったが、その長沼氏もここに居館を置いていたといわれる。ただ、この長沼氏時代の居館に関しては通説というだけで、明確な史料があるわけではない。
 元弘元年(1331)より始まる元弘の乱から、鎌倉幕府滅亡、建武の新政までの一連の流れの中で、源氏としての血統の良さやその勲功から尊氏が武士の支持を集め、やがて建武2年(1335)の中先代の乱をきっかけに尊氏は鎌倉に居座って建武政権から離脱し、室町幕府設立へと舵を切った。尊氏は武家勢力を糾合して上洛し、後醍醐天皇を比叡山へと追うが、ほどなく新田義貞や北畠顕家、楠木正成の軍勢に敗れて九州へと落ちることとなる。この時、尊氏に従っていた足利庶流の細川一門は、淡路、四国、中国の宣撫を命じられて別行動を取るのだが、これが鎌倉時代に零細な武家に過ぎなかった細川氏が、隆盛するきっかけとなった。
 細川一門は、四国で武家勢力を糾合して纏め上げ、九州から攻め上ってくる尊氏に合流し、湊川の戦いに功を上げるなど、室町幕府樹立に大きく貢献した為、幕府樹立後はその恩賞として中央の要職や守護に任命されるなどしている。そして、その後も各地で南朝勢力を掃討したほか、阿波では鎌倉時代の守護だった小笠原氏を降し、讃岐でも在地豪族の被官化を進め、四国や山陽で勢力を拡げていく。その後、細川氏は、嫡男和氏の子清氏が康安元年(1361)に政争に敗れて失脚した為、嫡流は和氏の弟頼春の系へ移り、頼春の系から管領職を世襲した京兆家や阿波守護家、和泉守護家、備中守護家などが輩出されて主流となった。
 この養宜館の城主だった淡路守護家は、この主流となった頼春の系統ではなく、和氏の末弟師氏の系統である。師氏は、淡路守護に任命されると、暦応3年(1340)に南朝方であった宇原氏らを立川瀬の戦いで破り、養宜館に入城したという。そして、子氏春は一時清氏に同調して幕府に叛いているが、清氏滅亡後は幕府に帰順して淡路守護に再任し、子孫は有力な細川庶家として惣領の京兆家に従った。
藪化している土塁 この後、細川氏は応仁元年(1467)からの応仁の乱で勝元が一方の大将となり、子政元は他の有力守護大名の没落もあって幕府随一の権力者となるが、政元には子が無く、澄之、澄元、高国という3人の養子を迎えたところから細川氏にも内訌が訪れてしまう。事の起こりは、永正7年(1504)に澄之派の家臣が政元を暗殺したことである。これにより、澄元と高国を追って澄之が家督を継いだのだが、追われた澄元と高国は、細川家臣や実家である阿波細川家、そしてこの淡路を領していた細川尚春などの支援を得てすぐ反攻に転じ、澄之を滅ぼして澄元が家督の継承に成功した。だが、争いはこれで収まらず、政元に追われていた前将軍足利義尹(義稙)が大内氏の支援を得て翌年に上洛すると、高国がこれに通じて澄元陣営から離れたのである。これ以降、高国が澄元の子晴元に滅ぼされる享禄4年(1531)まで両細川の乱と呼ばれる細川家惣領の家督争いが続き、その中で功を挙げていった阿波細川家家臣三好氏の台頭を許した。
 この一連の内訌の中、淡路守護細川尚春は概ね澄元方に属し、永正11年(1508)に主力軍のひとつとして芦屋浜で高国軍と戦ったりしているが、同年の船岡山の合戦で澄元軍の主力が敗れると、淡路に撤退して高国と和している。しかし、これによって阿波からの上洛路を確保したい澄元勢の第一の目標とされてしまい、同14年(1517)に澄元の家臣三好之長が淡路に侵攻して尚春は和泉国へ追われ、淡路は実質的に三好氏の影響下に入った。その後、尚春は淡路に復帰したようだが、昔日の影響力は無く、同16年(1519)に阿波で之長に討たれ、淡路守護家は実質的に滅んだ。また、これからほどなく主を失った養宜館も廃されたという。
 尚春の死の翌年、之長は澄元と共に上洛を果たした後、高国方の逆襲に敗れ、捕らえられて斬首されているが、この斬首は尚春の子彦四郎の強い訴えがあった為とされる。奇しくも尚春の死の1年後であった。だが、淡路における淡路細川家の基盤は既に失われており、彦四郎が淡路に帰ることはなかったようだ。
 城は、三原平野の東端の僅かに傾斜を持った台地上にあり、北側に養宜(ようぎ)川、南西側に成相川が流れ、この両川が外堀の役目を果たしていたと思われる。縄張自体は方形居館そのもので、周囲を一重の堀が囲っただけであったが、周囲には前山城、上田城、柿ノ木谷城などの城があり、支城や詰の機能を備えていた。この辺りは、一乗谷等に見られるような、居館を中心とした一体防衛の構造と言えるだろうか。
堀跡と思われる土塁と溝の間の低地には水が溜まっていた 現在、遺構として残っているのは東側と北側の土塁のみで、戦前までは他の土塁や堀などの遺構も比較的多く残っていたようなのだが、これらは開発で消滅してしまっている。ただ、北側の土塁の外側は、台風直後ということもあって溝と土塁の間に水が溜まっており、水堀跡と思しき土地の低さが微かに残っていた。土塁は藪化が進んでほとんど登れない状態だが、僅かに踏み入れることができる場所からは淡路最大の三原平野が一望でき、さすがに守護所といったところだろうか。