竹中半兵衛重治墓
所在地  兵庫県三木市
三木市役所北東2km
最終訪問日  2016/9/25
白塀で囲われた竹中半兵衛の墓 秀吉が三顧の礼で軍師として迎え、黒田官兵衛孝高とともに秀吉幕下の二兵衛と称され、三木合戦の陣中で病没した竹中半兵衛重治の墓。秀吉が三木合戦で本陣を張った平井山の麓にある。現地の案内板には世間的に有名な通称である竹中半兵衛の墓とあった
 竹中半兵衛は、天文13年(1544)父重元の次男として生まれ、父の死後菩提山城主となり、斉藤龍興に仕えた。若年の頃より軍略に秀で、斉藤家中はもとより、隣国の織田家にも名前が知れていたという。
 有名なのは稲葉山城の乗っ取りで、弟の病気見舞いと称して16人とも17人ともいわれる人数で主君龍興を城から追ったが、信長の調略を断り、龍興に城を返して隠棲した。この乗っ取りの理由には様々な説があり、龍興に冷遇された為とも、政務をおろそかにする龍興を諌める為とも、美濃三人衆のひとりで舅でもあった安藤守就が失脚した為ともされるが、明確にはなっていない。
 この後、秀吉の再三の説得で織田家に従うことを決めるが、信長の苛烈さを知っていた半兵衛は織田家の直臣ではなく、人たらしとまでいわれた秀吉に属すことを条件にし、以降は秀吉の軍師として政戦略に重要な影響を及ぼした。この半兵衛の墓がある三木を本拠としていた別所氏攻略の作戦を立案したのも半兵衛とされ、以後の小田原征伐に集約される秀吉の攻城戦のスタイルに強い影響を与えているが、半兵衛自身は三木の陣中で肺結核か肺炎と思われる病を患い、一旦京で養生するも見込みが無いと判断して再び三木に戻り、その作戦完了を見届けることなく天正7年(1579)6月13日に36歳で死去した。その死に際して半兵衛は秀吉が天下人になると予言し、秀吉は亡骸にすがって人目も憚らず号泣したという。
 半兵衛と秀吉は、よく諸葛孔明と劉備の主従にたとえられるが、半兵衛が秀吉から再三に渡って説得を受けたことや、その書生然としたイメージ、清廉な人柄などが諸葛孔明のイメージと重なることが大きな理由だろう。半兵衛の事跡については、その重要な史料である豊鏡という書物が半兵衛の子重門によって書かれたものであり、江戸時代の軍記物などで誇張された逸話も多く、実際には不明な点が多い。その為、大した事跡を残していないという説や、織田家の直臣で秀吉の指揮下にあっただけの寄騎、つまり主従関係ではなく対等な立場だったという両者の根本的な関係を疑う説まである。この辺りの評価が定まるには、新しい史料が発掘されるのを待たなければならないが、半兵衛に何らかの魅力や能力があったればこそ、戦国を代表する軍師という肩書きが与えられたのではないだろうか。
 現在、平井山にはぶどう農園が広がっているが、平地からほんの少し登った麓の一角に、白壁の塀で囲われて明らかに周囲とは異質の雰囲気を持つ場所がある。これが半兵衛の墓である。戦略はそのまま経営の戦略に応用できることから、経済人に崇拝されているらしいが、地元でも毎年法要が行われているそうで、訪れたときにも花などがきちんと供えられ、半兵衛の人気が未だに根強いことを物語っていた。