竹田城 所在地 兵庫県和田山町
国道312号線竹田交差点西1km
区分 山城
最終訪問日 2010/11/28
竹田城縄張図 別名虎臥城ともいい、但馬以下数ヶ国の守護を兼ねて室町幕府内で絶大な勢力を誇った山名宗全こと持豊が、室町時代中期の永享3年(1431)に播磨から但馬へ通じる街道の抑えとして築いた山城で、足掛け13年かけて嘉吉3年(1443)に完成したという。
 赤松満祐が将軍義教を謀殺して討伐された嘉吉の乱で功を挙げた宗全は、赤松旧領の守護職をも得て勢力を強め、有力家臣であった太田垣光景にこの城の守備を命じた。それは、隣接する赤松氏と山名氏に古くからの因縁があり、播但国境に近いこの城が重要な防衛及び出撃拠点であったことを意味する。事実、嘉吉の乱の直後には播磨奪回を目指す赤松満政の乱があり、応仁の乱の際には赤松家再興を果たした赤松政則が山名家に奪われた旧領を奪い返し、応仁の乱後には宗全の跡を継いだ政豊が播磨などを再び掌握すべく出兵するなど、両氏の間には争乱が絶えなかったようだ。
 また、応仁の乱の対立から、京に出兵して手薄になった但馬を丹波守護の細川氏が侵さんとした、夜久野合戦と呼ばれる戦いもあった。この時、光景の子である城主の景近は嫡子宗朝と共に京に出陣し、城は次男の宗近が守っていたが、宗近は他の山名守備隊と共に少数ながら細川軍の本隊に突撃を敢行し、散々に打ち破っている。
 このような争乱の絶えない状況の中で、播但国境に近い竹田城を守った太田垣氏は山名家中で一段と影響力を拡大し、垣屋氏、田結庄氏、八木氏と並んで山名四天王と呼ばれるまでになった。天文11年(1542)に山名祐豊は播但国境の生野銀山を掌握しているが、山名氏が内紛などで四天王の台頭を許して実権を失って行った結果、宗朝の孫朝延が永禄元年(1558)には銀山に管理吏を置いているように、戦国末期には四天王が実質的に但馬を分割して治めるという状況になっていたようだ。
珍しい棚のような構造を持つ天守台 将軍義昭を奉じた信長の入京後、永禄12年(1569)に毛利元就の要請で尼子氏残党の牽制の為に但馬に出兵した織田家の部将羽柴秀吉は、瞬く間に山名氏を服属させ、この時に太田垣氏も織田氏に属した。この後、丹波の赤鬼と呼ばれた赤井直正に一時占領されるが、天正3年(1575)に織田家の丹波攻略で直正が退去し、城を回復している。
 しかし、山名氏へは反信長方となった毛利家からの調略や圧迫が盛んになり、朝延の子輝延は主家山名氏と共に毛利方へと寝返った為、天正5年(1577)に播磨を平定した秀吉軍によって攻略された。その後、一旦は東播の雄である別所氏が織田方から離反したことによって但馬攻略は休止されるが、別所氏滅亡後、天正8年(1580)に再び但馬に侵攻した秀吉軍は竹田城を陥落させ、ようやく但馬は完全に織田家の領国となったのである。
 太田垣氏の後、一時羽柴秀長が城代となり、次いで桑山重晴、そして斎村政広とも名乗った赤松広秀が城主となった。広秀は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の際に西軍に属して丹後田辺城攻めに参加した後、東軍の勝利を知って兵を引いたが、鳥取城攻めに苦心していた亀井茲矩の誘いに乗り、挽回の好機と西軍方の鳥取城攻めに参加している。しかし、失火か放火かは不明だが、攻撃中に城下を焼失させてしまい、家康の怒りを買って切腹を命じられた。一説には、室が宇喜多秀家の妹であった為に秀家を匿ったという嫌疑を受けたからとも、茲矩のミスを押し付けられたともいう。いずれにしろ、広秀の切腹によって赤松家は滅亡し、この時に竹田城も廃城となっている。
 城は、豊臣政権期に赤松広秀によって壮大な石垣造りの城に修築された、天守台の高石垣をも持つ典型的な近世山城で、山頂に本丸を置いて3方向に伸びる尾根筋ごとに郭を連結し、それぞれ南には南二ノ丸、南千畳、北には二ノ丸、三ノ丸と北千畳を、本丸の北西には花屋敷という方形の郭を置く。大手は、北千畳から円山川や街道がある東の方向に開いており、反対の西側は急峻な崖で、天然の要害の上に壮大な石垣を構築した、まさに天空の城だ。一方、山名氏が構築し、太田垣氏が城主であった頃の竹田城は、石垣をほとんど持たない中世山城に近い形式だったと考えられる。その頃の防御力は、ほとんどをこの急峻な地形に頼っていたと考えられるが、登山道から僅かに堀切や削平地などの遺構らしきものを確認することも可能だ。また、赤松氏時代の石垣も、幸い廃城後は破却されず朽ちるにまかせていたようで、当時のままの姿をよく残している。
天守台から南二ノ丸と南千畳 映画「天と地と」で上杉謙信の居城春日山城として使われ、車道や駐車場が整備された。車道は大手に出る道と、駐車場から少し徒歩で登る搦手側の2本があるが、大手側は一般車が入れないようになっていた。これは土日だけだろうか。城跡に建物類はないものの、高石垣がそそり立ち、天守閣跡から眺めると、木々が少なく城の構造がとても解りやすい。更に、川筋やそれに沿う街道筋も眼下に広がり、三大山城に決して勝るとも劣らない、これぞ山城という感動が得られる。また、個人的には、山城の感動を最初に味わった城であり、非常に愛着が深い。