洲本城 所在地 兵庫県洲本市
洲本市役所南東500m淡路文化史料館周辺
区分 平城・陣屋
最終訪問日 2007/10/17
洲本城址碑と櫓台の石垣 一般に洲本城と言えば、三熊山頂にある山城と山麓の平地にあるこの城の2つを合わせて呼ぶが、両者は歴史的に連続しておらず城の性格も全く違う為、敢えて洲本城と三熊山城に分けた。通常は、山頂の城を上の城、この麓の城を下の城と呼んでいるらしい。
 淡路島には、室町時代に将軍家の命で瀬戸内の鎮めとして入部した安宅氏が勢力を扶養し、戦国時代には三好長慶が弟冬康を安宅氏に入嗣させて、四国に本拠を置く三好氏が畿内との通行に支障を来たさぬよう支配していた。この頃、もともとの洲本城である三熊山城は安宅氏の本拠として機能しており、信長の勃興によって三好氏が没落した後も、淡路島の首城として安宅氏や仙石秀久、菅達長らによって攻防が繰り返された。その後、脇坂安治が近世山城として三熊山城を完成させたが、慶長15年(1610)に池田輝政の三男忠雄が由良城へ本拠移した為、城は廃された。
 元和元年(1615)の大阪の陣後、阿波の蜂須賀至鎮に淡路一国の加増が宛てがわれ、やがて城代として筆頭家老稲田稙元が置かれたが、子の示稙は寛永8年(1631)から由良の地は隘小として洲本に本拠を移し、町割りも計画的に行って現在の洲本市街の原型を形造った。この時に築かれたのが下の城こと江戸時代の洲本城である。城は、お居館と呼ばれたように陣屋形式で、軍事拠点としての性格は無く、まさに政庁であった。これは、三熊山頂の旧洲本城が大して破却されず石垣なども綺麗に残っており、詰としての機能をある程度期待できたからとも考えられる。
 稲田家は、蜂須賀家と同じく尾張と美濃の国境に勢力を持っていた川並衆であったとも、織田家の本家筋である岩倉織田家の家臣であったともいわれ、出自ははっきりしないが、もともとは主君の蜂須賀家と同格であった。その後、稙元と蜂須賀正勝との個人的な関係からか、与力という形で稙元が正勝の指揮下に入り、徳島藩の成立によって家臣化した。だが、蜂須賀家では、もともとが同格ということを考慮して稲田家を優遇し、筆頭家老の洲本城代として淡路一国の裁量を任せた。このことが維新後に微妙な影を落とす。
 幕末の争乱で、徳島藩は目立った動きをせず、どちらかと言えば佐幕に寄りつつも傍観しているような感じであったが、稲田家は徳島藩とは別に尊攘派として積極的に行動していた。徳島藩側からすれば、藩の家臣の立場にありながら別行動するというのはどういうことかという感情があり、稲田家中でも徳島では陪臣としてしか扱われないという長年の鬱積があって、互いにしこりのある状態だったが、このしこりを爆発させたのが版籍奉還であった。版籍奉還と同時に出された通達では、武士は士族という身分を与えられるとあったが、稲田家の家臣は陪臣という立場から足軽と同じ卒族ということになってしまう為、倒幕で功を挙げたという自負も後押しして、稲田家中では稲田家の独立立藩運動が起こった。しかし、先に過激な反応を示したのは徳島藩側で、藩士らが徳島の稲田屋敷や阿波国内稲田氏の配地を襲撃した。これが、庚午事変とも稲田騒動とも呼ばれる内訌である。だが、騒動は以外に早く終結する。襲われた稲田家側が応戦せず無抵抗だったことや、明治政府の怒りを買ったことで徳島藩取り潰しの危機となったことから、襲撃した首謀者らは切腹し、稲田家の家臣は士族として認められた。だが、稲田家主従は北海道に移住して開拓することを命じられ、約250年も徳島藩領であった淡路は徳島県ではなく本州側の兵庫県に編入されるなど、両者にとってもかなり厳しい結果となった。
下の城の城址碑と上の城こと三熊山城の模擬天守 現在の城跡には、裁判所などの公共施設と淡路文化史料館が建っているが、石垣や櫓台、前面の堀など、遺構はしっかりと残っており、正面から見ると、麓にある石垣と堀、そして背後の三熊山の模擬天守が良い対比となって、まるで中世の領主居館と詰城という組み合わせが思い浮かぶような良い景色である。正面からよく見てみると、櫓台の石垣は切り詰めハギだが、堀の部分の石垣は野面積に近い打ち込みハギのような感じで、若干違いがあるのに気付いた。もしかしたら、後で改修の手が入るなどして築造時期に違いがあるのかもしれない。ただ、訪れた時間がもう史料館の閉まっている時間だったので、近世の洲本城に関する詳しい資料が得られず、実際にどうだったかは判らなかった。