志方城 所在地 兵庫県加古川市
山陽道加古川北I.C.南3.5km
区分 平山城
最終訪問日 2014/5/4
志方城説明板 室町時代からの赤松氏の家臣櫛橋氏の居城。市易城ともいう。
 志方を代々領した櫛橋氏は、各系図では、播磨の名族赤松氏を興隆させた円心則村の4代前の則景の子有景を祖としている。しかし、この八郎有景は櫛田氏の祖となった人物で、櫛田と櫛橋を取り違えた可能性があるという。別説として、藤原北家九条流の世尊寺家の裔とする説があるほか、その九条流の藤原伊周に付き従って武蔵国児玉郡を開拓し、児玉党の祖となった有藤惟能の流れという説もある。児玉党説では、児玉党の一流が相模国櫛橋郷に住んで名字とし、後に隣接する糟屋郷の糟屋(糟谷)氏との縁から播磨に下向したというものであるが、その糟屋氏にも盛久の子に櫛橋与一という人物がおり、話がややこしい。
 いずれにしても、鎌倉時代に播磨守護代を務めた糟屋氏が志方からすぐ南の加古川に在ったのは間違いなく、櫛橋氏の初代伊朝が観応元年(1350)からの観応の擾乱に見える糟谷新左衛門尉伊朝と同一人物と見られるなど、分かれた一族なのか、婚姻を重ねた姻族かは別として、糟屋氏と櫛橋氏に濃密な繋がりがあったのは確かなようで、相模から来往したとするのにも説得力がある。このほか、伊朝よりも前には、櫛橋を名乗る人物として太平記に次郎左衛門尉義守と三郎左衛門尉が見え、義守は鎌倉幕府側の六波羅探題に与して討死したというが、義守が伊朝と繋がりがあったのか、また、どういう関係であったのかなどはよく分かっていない。
 前述の櫛橋氏の初代とされる糟谷伊朝が登場するのは、擾乱の際に松岡城に追い込まれた尊氏側の赤松範資の配下としてで、この頃には既に守護赤松氏の家臣だったようだ。伊朝は、後に討死したとも、戦傷が元で没したともされ、以降、伊光、伊範、伊高と各代の当主も赤松氏に従って討死しているが、伊範や伊高は目代や出納役を務めるなど、赤松家中で重きを成したという。
 嘉吉元年(1441)に赤松家当主満祐が将軍義教を討った嘉吉の乱の際には、赤松氏の本拠である城山城落城時に、当主貞伊が満祐の嫡男教康の脱出に付き従い、伊勢で教康に殉じている。教康は供回り17人を連れて脱出したとされることから、貞伊がどれほど赤松氏に近い存在であったかが判るだろうか。この乱で赤松氏と共に櫛橋氏も没落してしまうのだが、貞伊の遺児則伊は、赤松政則による赤松氏再興の際に志方に復帰し、櫛橋氏も再興された。そして、明応元年(1492)に本拠として築いたのがこの志方城である。
 だが、築城以降の櫛橋氏の事跡は乏しくなり、どのような統治を行ったかなどの実態はよく分かっていない。中央では、細川氏による権力争いが続き、その影響が色濃く降りかかった赤松家中でも、赤松氏の没落と守護代浦上氏の台頭、そして天文6年(1537)から翌年にかけての尼子氏の侵入などで、赤松氏の領国体制は崩壊していくのだが、櫛橋氏の嫡流とされる伊家、伊定(則伊)の事跡が不明確な一方で、赤松氏の奉行として豊後守を名乗る則高、政朝の名が見える。もしかすると、櫛橋氏内部に二重権力構造があり、それが豪族としての強化を鈍らせた為、事跡の不詳へと繋がったのかもしれない。
 その後、中道子山城の孝橋氏が、三好氏との対立で天文24年(1555)前後に城を放棄して佐用へ退いているが、その頃には近傍の志方にも、三好氏からの影響が何らかの形であったものと考えられる。永禄11年(1568)の信長上洛以降は、三好政権が崩壊し、播磨は三好氏の影響力を脱した別所氏や小寺氏など中小豪族が割拠する状態となり、櫛橋氏も同じ赤松旧臣である小寺氏や別所氏と連携したようだ。そして、天正5年(1577)には、これら播磨の諸豪族がほぼ織田方に投じ、一旦は織田家が播磨を掌握するのだが、同年の双方による軍議以降、別所氏を始め有力豪族が毛利家に転じ、翌年には織田家に対して兵を挙げることとなる。そして、櫛橋氏の志方城もこれに同調し、城主伊定は城に籠もったのだが、織田家は各地方の主力軍を動員して城の各個撃破に取り掛かかり、志方城は織田信雄の軍に包囲され、8月10日に開城した。ただ、三木城落城の直前、天正8年(1580)1月の落城とする史料もあるという。
 志方城の最期には諸説があり、神吉城落城を見て降伏したという説、伊定や城兵が城を捨てて退去したという説、赤痢が流行って継戦できず伊定の命と引き換えに降伏したという説、抗戦によって伊定が討死して落城したという説などがある。また、城主も最後は伊定の子政伊だったという説もあり、混沌として定説を見ない。落城後の櫛橋氏は、黒田官兵衛孝高の室である光の実家であったことから、織田方だった孝高が櫛橋氏存続の為に何らかの働き掛けをしたようで、政伊の子らは黒田家に仕えた。
 志方城は、平野部にある微高地を本丸とし、北に二ノ丸、西に西ノ丸を置き、その周囲を堀が囲うという構造である。縄張としてはシンプルで、中小豪族にありがちな、居館から出発した城だったのだろう。ただ、現在の市街地から類推すると、その規模は意外なほど大きかったようだ。一方、比高に関しては数mしかなく、平山城と言えば平山城だが、正確には所謂丘城で、高低の防御力はほぼ無かったものと思われる。
光の墓には雅号幸圓の幟がはためく 城跡は、本丸が観音寺、二ノ丸が小学校、西ノ丸が集落の西蓮寺から二の丸会館にかけてで、痕跡らしき地形はあるものの、明確な遺構は見当たらなかった。会館の名前や、路地などにその名残があるのみである。
 訪れたのは、大河ドラマ軍師官兵衛の放送中で、観光客が多いかと思っていたが、連休中の晴れの日の割に、観光客は少なかった。城跡と言っても、城好きが推測できる程度で、一般の人から見れば城のイメージからはほど遠く、光の墓へ参ってすぐに去ってしまうのだろう。ただ、逆にそのお陰で落ち着いて城跡を散策することが出来たのは良かった。