志知城 所在地 兵庫県南あわじ市
神戸淡路鳴門道西淡三原I.C.南西1.4km
区分 平城
最終訪問日 2013/9/16
志知城周辺図 志知城の築城は鎌倉時代の初め頃といわれ、淡路国三原郡野口付近を支配していた菅道忠によると伝わる。ただ、この鎌倉時代の初期には、淡路国衙の在庁官人として右馬允藤原朝臣という人物が志知におり、菅氏とどのような関係があったかや、両者の支配領域がどうなっていたかなどは分からない。
 このように鎌倉時代の菅氏についてはよく判っていないが、南北朝時代の菅氏の存在は明確で、志知を本拠とする勢力が何度か太平記には登場しており、これが菅氏と見られている。太平記では、楠木正成が足利尊氏に湊川で敗れ、後醍醐天皇が吉野へ落ち延びて崩御した際、金石の如き義心を持つと称された官軍の中に志知勢が数えられており、南北朝時代の初期は南朝方に属していた。だが、全国の国人が一族で南北に分かれて争ったように、菅一族の中にも北朝に味方する人物として菅実正の名が見え、やがて南北朝初期に北朝方の淡路守護となった細川師氏が淡路を制すると、菅氏もこれに服属したようだ。太平記には、新田義貞の弟で南朝方の将であった脇屋義助を備前まで護衛した中に志知衆の名があり、師氏が淡路を制したのもこれと同時期の暦応3年(1340)であることから、菅氏が南朝から北朝に転じたのはこの時期であるのは間違いない。また、南北朝時代初期には、既に水軍衆として活動していたことが知れる。
 室町時代の菅氏の動向はよく分からないが、やがて志知の菅氏は野口と名乗りを変えたようだ。一説には実邦の時に野口を名乗ったともいう。また、菅一族は淡路北部の岩屋城や猪熊城を支配下に収めていたようで、猪熊城主として菅元重の名が見え、淡路島東岸一帯に菅一党が勢力を拡げていたらしい。
志知城の案内板と本丸、二ノ丸 戦国時代になると、細川家臣の阿波守護代三好家が力を伸ばし、淡路細川家も尚春の時に三好之長によって滅ぶが、野口氏は三好家に与したようで、則守が功を挙げている。そして、この功の為か、三好長慶の時代にはその弟冬長が野口氏に養子として入り、安宅氏を継いだ兄冬康と共に三好氏の本拠阿波と畿内を結ぶ淡路支配に貢献した。この冬長は、万五郎という通称から則守の跡を継いだ弘宗と見られ、名字を野口から菅へと戻している。一連の流れから見ると、三好家に属して抜群の功を挙げた則宗に対し、一族を送り込んで三好家の柱石にすると共に、その後援で菅一党の惣領に取り立てて菅姓を名乗らせたと見ることもできるが、どうだろうか。
 その後の菅氏は、三好家に擁立されて上洛を企てた14代将軍義親(義栄)が一時志知に滞在するなど、相変わらず三好家を支える重要な勢力であった。また、弘宗の跡を継いだ長宗が天正4年(1576)頃に城主であったことが東の伊勢明神社の棟札から確認でき、この頃には菅から野口へ名字を戻している。この長宗には、長慶の弟義賢の子長助が養子に入ったものという説があり、長宗我部元親が阿波に侵入した時には、実質的に三好家惣領となっていた十河存保に味方して戦っているが、志知城にはその後詰としてか、秀吉配下の黒田官兵衛孝高が派遣されたという。一方で、現地案内板には同時期に降伏開城したとあり、織田家に叛乱した洲本城の安宅氏に同調して討伐された可能性もある。残念ながら、この辺りの詳細はよく分からなかった。
水を湛えた内堀 この後、長宗は阿波に移り、天正10年(1582)の本能寺の変の際には、洲本城などを占領した菅達長が志知城も支配したようで、同年の秀吉による征伐の際に開城している。そして、同13年(1585)の四国征伐後は加藤嘉明が城主となり、水軍が再編された。文禄4年(1595)に嘉明が伊予へ転封となると、志知周辺は秀吉の直轄となり、石川紀伊守や三宅丹後守といった代官が治めたが、慶長5年(1600)には叶堂城が築かれて廃城になったという。ちなみに、この石川紀伊守は現地に光遠とあるが、官職からすると光元のことと考えられる。
 城は、神戸淡路鳴門道から近い志知交差点の近くにあり、現在も水を湛えた内堀がほぼ残っている。遺構として目ぼしいのはこの堀と主郭部分だけだが、周辺には外堀の名残である用水路が僅かながら見られ、長宗が再興したという伊勢明神社も健在である。この明神社の鳥居はかつて馬場だったとされる場所にあり、城から近いという立地も考えると、恐らく城の氏神だったのだろう。明神社の更に東側には大日川が流れ、そのまま瀬戸内に船で出られるようになっているのも、水軍衆の城らしくて良い。主郭は本丸、それとあまり高さの変わらない二ノ丸があり、本丸は方形で、北隅に櫓台とも天守台とも呼ばれるものがあるらしいが、人を寄せ付けないほどの藪で確認できなかった。
 訪れた時は、堀はすぐ見つかったものの、主郭への入口が分からず、結局、城の周辺を2周ほどしてしまった。入口は、橋になっているところから藪に沿って歩くと藪の隙間のような感じであるので、遠目では分かりづらい。城跡は全体的に畑地化されているが、二ノ丸から本丸の境目にかけては散策し易く、古城らしさもあった。ただ、本丸が藪となっていて散策できない状態なのは、非常に残念である。