大内良雄の石垣跡
所在地  兵庫県多可町
多可町役場西南6km
最終訪問日  2009/9/5
西谷公園に残る石垣 江戸時代当時、この周辺は大和村と呼ばれ、赤穂藩の飛び地であった。その赤穂藩の家老大石内蔵助良雄が工事を指揮した灌漑の為の石垣という。
 赤穂藩は、忠臣蔵にも出てくるように塩田の経営を成功させており、潤沢な収入があった。その一方で、赤穂城築城経費などの支出も多かった為、財政はそれほど豊かではなかったという説も存在する。これらの財政的に裕福であるかどうかという話はひとまず置くとしても、藩内に産業を育て、領民から税金を多く取り立てるなど、経済に鋭敏な藩体制であったのは間違いない。忠臣蔵で不忠の家臣として登場する大野九郎兵衛知房も、いわば経済官僚であり、このような藩の経済感覚を象徴する存在と言える。
 このような藩の経済感覚からすれば、商業的なものだけではなく、領内の農業にも産業育成の視点から目が向けられるのは必然であっただろう。また、新田開発自体は、赤穂藩だけではなく当時の各藩が採る基本的な政策で、全国的に米の猛烈な増産政策が進められていたという背景も当然影響したと思われる。
 赤穂藩は、領内開発に伴い、各地に溜め池などの灌漑設備を造成したが、飛び地である大和村にも、この山裾の谷筋に高さ約8m、長さ約53mの堤構築を計画した。解り易く言えば、小さなダムである。だが、構築の最終工程で豪雨の為に決壊し、どうやら堤は未完に終わったようだ。この時、下流の神社の鳥居が500mも流されたというから、その貯水規模と被害のほどが判る。
 現地に残る石垣は、堤構築の際に造られた水抜きの吐水管を守る為のもので、城郭技術をそのまま用いており、城の石垣と同様に算木積みや扇の勾配と呼ばれる反りを残していた。石垣の周囲は、西谷公園としてキャンプ場などが整備されているが、駐車場付近から見ると、石垣の優美な姿は不思議と周囲の情景に調和しているように感じられ、決して悪いものではない。訪れた時は、土日にも関わらず閑散としていたが、春には桜祭りが行われるらしいので、訪れる人も増え、周囲の情景も彩りが増えて一変するのだろう。
 現地案内板には大石良雄の石垣跡とあるが、これは当時の筆頭家老だった内蔵助が幾度も視察の為に山向こうの九学寺を訪れたという伝承からである。説明板に表記されていないので詳しくは分からないが、年代的には内蔵助が国家老として在任した天和年間から元禄年間(1681-1704)の頃の話だろうか。ただ、後年になって内蔵助が有名になった為、他の赤穂藩家老を内蔵助に擬したという可能性もあるかもしれない。