室山城 所在地 兵庫県たつの市
JR竜野駅南6.8km
区分 平山城
最終訪問日 2016/10/15
室山城址碑 瀬戸内の有力な湊であった室津の城。
 室津は、神武天皇の上陸地点として開かれたとの伝承を持つ湊で、播磨風土記に室原泊として登場するほど古代から栄え、行基が整備したと伝わる摂津五泊のひとつ室生泊でもある。室の中にあるように穏やであるところからこの名が付き、古代から瀬戸内の水運で重要な位置を占めていた。
 水運で栄えれば、当然ながら軍事的にも重視されるようになり、平家物語にも室山の合戦という戦いが見え、頼朝が室小四郎に命じて湊を見下ろす岡の上に築かせたのが、この城の最初と伝わっている。その後、鎌倉末期には、千種川中流域に勢力を築いた赤松氏が、その河口付近の外港として室津を掌握し、城を再築したようだ。ただ、元弘3年(1333)の元弘の乱の際に赤松軍が船坂峠に布陣していることから、この頃には既に室津を掌握していたと思われるものの、築城の具体的な時期は判っていない。
 翌年の建武の新政が成った後、大功のあった赤松円心則村は、播磨守護に任命された。しかし、護良親王に近かった為、その失脚の煽りで結局は元の佐用荘地頭の地位に戻されてしまう。こうした中、護良親王と対立していた足利尊氏が、武士の不満を受ける形で建武2年(1335)に建武政権から離脱すると、円心はそれに味方し、尊氏の京攻略に参陣した。しかし、結局、尊氏は京を維持できず、翌年2月には西国に落ちて援軍を募ることとなり、円心は後醍醐天皇の権威に対抗すべく光厳上皇の院宣を受けるよう進言している。その進言した場所は諸説あるが、一説にこの室山での事という。
 その後、播磨に残った円心は、白旗城を築いて宮方に対抗し、この室山城にも嫡男範資を配したが、数に勝る新田義貞の軍は室山城を落とし、白旗城を包囲した。だが、円心は寡兵ながらよく持ち応え、5月に入ると九州多々良浜の合戦に勝利して勢いを盛り返した尊氏が東上し、新田軍は兵を引く。この時、尊氏は室津に上陸したという。こうして、5月25日には湊川の合戦が行われ、これに勝利した尊氏が室町幕府を開いた。その後、播磨守護に復帰した円心は、室山城に範資の子本郷直頼、次男貞範の子頼則などの孫達を置いたという。
 室町時代に入り、6代将軍義教の時、円心の三男則祐の孫である赤松家総領の満祐は、義教と折り合いが悪い上に勢力削減の標的にもなっていた為、貞範の系で義教に近侍していた貞村を本家当主に据えるのではないかとの疑念を抱き、嘉吉元年(1441)に結城合戦の祝宴と称して義教を自邸に招請し、斬殺してしまった。世に言う嘉吉の乱である。満祐は播磨に帰国し、討伐軍と対峙するが、この時の戦いは摂津や但馬からの侵攻が主で、室山城は主戦場とはならなかったようだ。ただ、満祐の弟義雅は、満祐の従兄弟で義教に近侍していた満政に降伏する際、嫡子千代丸(時勝)を託して自刃し、満政は一時、時勝をこの室津で匿ったという。
 戦後、赤松本家は滅亡し、播磨の守護職は山名宗全持豊に与えられる一方、満政は山名氏と争って討死し、貞村も程なく没した為、赤松氏は完全に没落してしまった。この山名氏時代には、室山城の城主として宗全の嫡孫政豊の名が見えるが、政豊は嘉吉の乱の年に生まれており、年齢的に考えて応仁の乱の少し前の時期だろうか。
室山城本丸跡 応仁元年(1467)から応仁の乱が始まると、宗全と対立した細川勝元の応援で時勝の子政則が播磨奪還を目指して盛んに活動し、播磨、備前、美作の旧領国を奪回した。この過程で貢献したのが浦上則宗で、以後、浦上氏は守護代として主家をも凌ぐ権勢を得るのである。浦上氏は、三石城を本拠とし、この室山城も勢力圏に置いたようだ。
 赤松氏は、政則の代で鮮やかに復活したものの、政則の死後は赤松氏の古くからの重臣である浦上氏や小寺氏、そして政則が個人的に信頼して台頭した別所氏の、4者が連合した政権となり、実質的に播磨が3分割され、更に播磨西端から備前、美作にかけては浦上氏の支配となった。そして、則宗の甥の子村宗の時には、村宗の専横によって政則の跡を継いでいた義村、更にその子政村(晴政)との対立が起こり、その過程で義村が室津に幽閉されている。
 その後、村宗は享禄4年(1531)の大物崩れで討死し、家督は嫡男正宗が継いだが、天文7年(1538)から翌年に掛けての尼子氏の侵攻に敗れ、一時、堺へ逃れた。同11年(1542)の播磨復帰後、正宗は室山城を本拠としたようだが、天文20年(1551)の尼子氏の備前侵攻に際し、これと同盟した正宗に対して弟宗景が反発し、浦上家は分裂してしまう。そして、正宗は宗景と戦うも、敗北を重ねて備前での影響力をほぼ失ってしまい、播磨西端を領すのみとなった。更に、主君の晴政・義祐の父子対立に介入した為、晴政を支援する龍野城主赤松政秀の圧迫を受け、同じく政秀と対立する黒田職隆と婚姻を結ぶものの、永禄7年(1564)正月の婚礼の日に政秀に急襲され、嫡男清宗共々討たれてしまう。また、跡を継いだ子の誠宗も、同10年(1567)に叔父宗景によって暗殺された為、正宗系の浦上氏は完全に滅んだ。ちなみに、室山城の廃城も同時期であるが、史料により、永禄7年(1564)、同9年(1566)、同10年(1567)の説が見られる。
 城は、室津の湊の東側にある標高数10mの丘陵にあり、東は崖となっている要害の地にあった。主郭部以外の縄張ははっきりしないが、ほぼ同じ大きさで丘陵南側の最後部に本丸を、その北側のやや下がった場所に二ノ丸を置き、その周囲を長大な空堀が廻っていたという。
 室津は、御津から相生へと抜ける国道250号線の、七曲りと呼ばれる海岸沿いの部分にあり、室津の市街へ入らず向かって左手の丘陵への道に入ると、二の丸公園という、そのものずばりの公園がある。この公園からやや離れた、真南に見える少し高い場所に本丸があった。地図で言えば、室津小学校から真東の場所である。しかし、残念ながら二ノ丸も本丸も、公園名と城址碑以外はこれといった遺構は無かった。
二の丸公園の上段から海の眺め 現在の室津は、古い町並みを残す港町として知られており、その狭い路地と木造家屋が建ち並ぶ様子は、備後の鞆の港町に似た雰囲気があるが、鞆よりももっと鄙びていて、より昔の趣がある。今からでは少し想像し難いが、江戸時代は海路を利用する西国大名の上陸地点となっていて、6軒もの本陣があったという。そのような往時の殷賑さを想像しながら、港町の路地を抜け、城を散策すると、東に開ける瀬戸内の景色も何やら古色があるようで、妙に感慨深かった。